伝統板・第二
審判(さば)く心なかれ ③ - 伝統
2025/09/02 (Tue) 11:14:07
《他人を責めることなかれ》
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より
すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。
この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。
だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。
「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「審判(さば)く心なかれ」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6972631
(2)伝統板・第二「審判(さば)く心なかれ ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7972976
<感謝合掌 令和7年9月2日 頓首再拝>
批判の心は鏡のように - 伝統
2025/10/11 (Sat) 12:01:08
批判の心は鏡のように──あなたが見ているのは他人ではなく自分
宇宙の兄弟たちへ(2025年10月10日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/10/blog-post_10.html
<感謝合掌 令和7年10月11日 頓首再拝>
心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ - 伝統
2025/11/10 (Mon) 10:56:37
*「光明道中記」(11月10日)より抜粋
~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日
心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。
人々よ肉体の病気よりも
人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。
その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。
高慢は禁物である。
<感謝合掌 令和7年11月10日 頓首再拝>
審判(さば)く心は、閻魔の心 - 伝統
2025/11/11 (Tue) 11:58:44
*「光明道中記」(11月11日《我慢の消ゆる日》)より
【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
(『生命の實相』第十巻)】
自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。
そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。
一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、
一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。
人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、一度悟ったと思って
そのまま放置して置くと、元の我が出て凡夫になっていることがある。
聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。
我欲、我慢、我執が出たら、
元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。
我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、
人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。
<感謝合掌 令和7年11月11日 頓首再拝>
真理で裁くなかれ、真理は自己を完うせんがためのもの - 伝統
2025/12/02 (Tue) 11:53:10
*「光明道中記」(12月2日)より
~真理を諦(あきら)かにする日
【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
(『生命の實相』第二巻)】
宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。
諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。
そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。
多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。
剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。
では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。
他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。
時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。
欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。
<感謝合掌 令和7年12月2日 頓首再拝>
真理は裁きの材料ではない、真理はそれ自身で尊い - 伝統
2025/12/03 (Wed) 10:29:29
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より
どんな善いことが書いてあっても、それが自分の魂を養う糧だとして
受け取ることができない人は気の毒な人である。
甲は曰く、
「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
乙の野郎奴(やろうめ)、
先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」
乙は曰く、
「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
甲の野郎奴(やろうめ)、
この文章を見て反省するがよい。」
こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。
真理はそれ自身で尊いのである。
<感謝合掌 令和7年12月3日 頓首再拝>
ひとを審判(さば)かない - 伝統
2026/01/15 (Thu) 08:31:11
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より
いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。
今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。
ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。
この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。
「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」
(伝教大師『末法燈明記』)
<感謝合掌 令和8年1月15日 頓首再拝>
《人の心の傷を突衝(つつ)くな》 - 伝統
2026/04/22 (Wed) 10:23:28
「光明法語」(4月22日)より
スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。
併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。
生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。
時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。
<感謝合掌 令和8年4月22日 頓首再拝>
審判(さば)き心を捨つる日 - 伝統
2026/06/28 (Sun) 11:21:53
*「光明道中記」(6月28日)より
【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
(『生命の實相』第十一巻)】
自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。
世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。
されば人を相対的価値によって論議する勿れ。
人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。
彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。
彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。
その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。
されど、イエスは絶対価値なり。
<感謝合掌 令和8年6月28日 頓首再拝>
排斥する心は毛虫のような心 - 伝統
2026/08/11 (Tue) 08:14:58
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より
人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。
憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。
互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。
「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。
毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。
毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。
自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。
<感謝合掌 令和8年8月11日 頓首再拝>
《他人を責めることなかれ》 - 伝統
2026/09/02 (Wed) 11:16:44
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より
すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。
この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。
だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。
「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。
<感謝合掌 令和8年9月2日 頓首再拝>