伝統板・第二

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物質無 ③ - 伝統

2025/10/05 (Sun) 10:08:38


物質からは生命は生れない

    *「光明道中記」(10月5日 霊に生きる日)より


【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、物質文明のみを尊重して、
物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、それが霊の権威を失うとき、
物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。

物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。
物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。
最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、全然
神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「物質無」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6819763

(2)伝統板・第二「物質無 ②」
   → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7966920

           <感謝合掌 令和7年10月5日 頓首再拝>

物質”なし”、ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2025/10/23 (Thu) 10:52:51


    *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》)より 

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                    (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、結局その念の支持力によって
病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」と
ハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

            <感謝合掌 令和7年10月23日 頓首再拝>

「物質」は無い、《霊のみある》 - 伝統

2026/04/02 (Thu) 11:17:06


      *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。
                   (『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、
エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、「無」であるが故に、
「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して
吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、
ただ霊的波動を、吾々が仮に静止面空間に置き直して、
物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

・・・

<関連Web>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「物質の否定、棄揚、神国の肯定」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=44

            <感謝合掌 令和8年4月2日 頓首再拝>

万物何物も変化しないものはない - 伝統

2026/04/03 (Fri) 09:59:44


     *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                        『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」
―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めないと云う人は、
「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易い
のであるが、万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが
発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような
固定したものではなく運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 令和8年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2026/04/04 (Sat) 11:03:56


    *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                        (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 令和8年4月4日 頓首再拝

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