伝統板・第二

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現象無しとは ③ - 伝統

2025/10/20 (Mon) 12:05:12


「真象」と「偽象」


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月20日)より

善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。

悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから
”ある”ように見えても存在せぬ。

そういう現象を偽象または虚象と言う。

善き言葉であらわれた現象は、
実在の延長であるから真象と言うのである。

真象は神御自身のコトバの延長であるから、
神の嘉(よみ)したまうところである。

神は表現を求めていられるのである。

真象は神の表現であり、神の発展であり、
み心の天になるがごとく地に成ることである。

真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。

現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。

「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「現象無しとは」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6994730

(2)伝統板・第二「現象無しとは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7959485

         <感謝合掌 令和7年10月20日 頓首再拝>

現象無しと完全に知る - 伝統

2025/10/22 (Wed) 11:55:39


    *「光明道中記」(10月22日《現象無しと完全に知る日》)より

【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
                      『生命の實相』第十一巻)】

二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。

仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。


却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。


一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、

「空とは単に無しと云う意味ではない。
 空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
 物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空である
 と観ずるのが”真空妙有の観である。
 これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」

等と云われるのである。

非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。

一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では
食べる訳にも行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。

           <感謝合掌 令和7年10月22日 頓首再拝>

「現象なし」「光明のみがある」という「理論」で人生を生き抜く - 伝統

2026/02/27 (Fri) 10:35:59


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性
 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。

この世は理で支配されている世界なのである。

理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、
それは高遠な哲理の表現であるからである。

病患部に対し神想観をして、
「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」
と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して
「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。

(治病のための施念法の詳細は
 拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方が
その人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、
われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。

多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在する
と理論体系「生命の実相」を自分の心のうちに蓄積する者は、
病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を征服して
光明の人生と化しうる。

・・・

<参照>

「生活応用 健全の真理」の目次より

   第一章 人間が幸福に健全になり得る根拠
   第二章 精神科学の発達と細胞精神の発見
   第三章 病気に対する暗示の活用

   第四章 内臓疾患に対する暗示法の実際
   第五章 特殊の精神神経疾患の原因及び治療

   第六章 ヨガナンダの精神治療理論
   第七章 精神統一の形式と真理の黙念法

   第八章 精神科学を応用せる健全生活法
   第九章 人に光明思念を送る法
   第十章 無限生長の道

   第十一章 メンタル・サイエンス奥儀

          ・・・

『生活応用 健全の真理』 講義(谷口雅春先生)
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/29ae211347039422d3ccd248a1089d82(消滅)

(1)三界は“唯心の所現”である。

(2)人間が幸福に健全になり得る根拠

  ①物質は究極的な存在ではなく、エネルギーの一つの状態に過ぎない。

  ②ここに、この人間を創ったところの
   不思議な知恵あるエネルギーが存在する。
  
  ③知恵あるエネルギーこそ神様。
   この世界は、心を有っているところの驚くべきエネルギーによって
   設計され、創造られているのであります。

  ④宇宙全体の動きを支配している知性と、人間に宿っている知性とが、
   “本来一つのもの”であるから、

   それで吾々の心が動けば全世界が動き出す、
   互いに相感応して動き出すということになるのです。

           <感謝合掌 令和8年2月27日 頓首再拝>

現象を否定し、実相を肯定せよ - 伝統

2026/03/03 (Tue) 11:45:29


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。

《無い人間が無い苦しみ》を苦しんでいるごとく
今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。

『甘露の法雨』にあるように、
「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と
思い直すだけでも、この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が
「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。

この言葉を百篇心の中で唱え、
いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

            <感謝合掌 令和8年3月3日 頓首再拝>

形ある真理はない - 伝統

2026/07/04 (Sat) 10:04:07


    *「光明道中記」(7月4日《真理を知る日》)より

【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。
                  (「生命の實相」第六巻)】 
 

「廓然無聖(かくねんむしょう)」

と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。

悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。

真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。

功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。

そう思い込んでいる際(はな)に、
曰く「無功徳」曰く「真理無し」と否定(うちけ)されて了ったのだから、
梁の武帝は、自分の眼の前にいる真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる
達磨大師は一体何者で、何を悟ったと言うのだろう。

一つそれを聴こうと思ったのだ。

そこで梁の武帝は、

「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。

如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないか
と云うような問である。

形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。

そこで、

「識(し)らず」

と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。

            <感謝合掌 令和8年7月4日 頓首再拝>

「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2026/10/04 (Sun) 09:52:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて
必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、
それは実在(ほんとにある)ではなくてただ光の波にすぎない
と同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という
「認識の形式」の上に投影されたる影である。

「認識の形式」というのは、
人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、
「実在する」(本当にある)ということは別である。

われわれが病気や貧乏の精神波動を
ロケーションしなければそんな姿はあらわれない。

           <感謝合掌 令和8年10月4日 頓首再拝>

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