伝統板・第二
実相を観よ(Look into the reality) ⑦ - 伝統
2025/11/05 (Wed) 11:10:47
心に描いた醜き姿を払拭し、実相を念じる
*「光明法語」(11月5日《醜き姿を心より払拭せよ》)より
病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、
想念の具象化である。
何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には
「かかるものは実在ではない。
実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」
と数回心に念じて、
醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。
宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「実相を観よ①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6922622
(2)伝統板・第二「実相を観よ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7669466
(3)伝統板・第二「実相を観よ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7910498
(4)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ④」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8021479
(5)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ⑤」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264347
(6)伝統板・第二「実相を観よ(Look into the reality) ⑥」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8351975
<感謝合掌 令和7年11月5日 頓首再拝>
ラザロを復活させたイエス - 伝統
2025/11/25 (Tue) 12:08:51
*「光明法語」(11月25日の法語)より
イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。
その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。
人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。
今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。
その時ラザロは復活した。
<感謝合掌 令和7年11月25日 頓首再拝>
現象の奥に実相を見る日 - 伝統
2025/11/27 (Thu) 11:45:06
*「光明道中記」(11月27日)より
【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
(『生命の實相』第十四巻)】
どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。
崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。
現象を現象として追いまわすのではなく、
現象の奥に実相を見出し、それを顕し、礼拝するための行事が
自分の生活であって欲しいのである。
自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。
静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。
眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。実相があらわれれば好いのである。
実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。
人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。
<感謝合掌 令和7年11月27日 頓首再拝>
ダイヤモンドの美はそれ自身で貴く、光り輝いている - 伝統
2025/12/02 (Tue) 11:48:26
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より
ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、
それはそのまま貴いのである。
ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。
が、それをある人に示したとき、
甲は、
「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」
と言った。
乙は、
「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと人が言うでしょう」
と言った。
丙は、
「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろうと
人が言うでしょう」
と言った。
甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。
かくして無上の価値を持った宝石も、心なき人の手に触れるとき、
それはすでに宝石でなく、「贅沢」となり、
「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。
しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然として
それ自身の光輝をもって輝いているのである。
<感謝合掌 令和7年12月2日 頓首再拝>
迷いの現象を去り、実相健全の姿を見る - 伝統
2025/12/04 (Thu) 10:42:48
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より
真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。
真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。
その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の側に真の宗教を体得した人々がある
ということができるのである。
真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。
真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。
人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。
ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。
彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて
号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。
イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。
同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。
直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。
またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。
「ああかわいそうに! 」と言って、
一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。
すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。
その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。
真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。
<感謝合掌 令和7年12月4日 頓首再拝>
善い本性を無尽蔵に有っている - 伝統
2026/01/22 (Thu) 12:03:51
*「光明道中記」(1月22日)より
~《九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日》
【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】
金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。
凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。
仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると
道元は『正法眼蔵』で喝破している。
たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。
発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。
そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。
打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
生長の家は
「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」
と言って打つ。
どちらが効果があるかは既に実証済である。
<感謝合掌 令和8年1月22日 頓首再拝>
悪しきものと見ず、實相に於いて観る - 伝統
2026/01/28 (Wed) 10:28:05
*「光明法語」(1月28日《常に己の心を清むべし》)より
人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。
人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。
もしその人がよき人と現れなかったならば、
それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。
あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを
自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。
<感謝合掌 令和8年1月28日 頓首再拝>
明暗の現象を見ず、光の世界を観る - 伝統
2026/02/09 (Mon) 11:39:03
*「光明道中記」(2月9日《陰を見ぬ日》)より
【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
(『生命の實相』十一巻)】
現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。
現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。
人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。
太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。
心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。
子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。
<感謝合掌 令和8年2月9日 頓首再拝>
実相が現象として現れる説明 - 伝統
2026/03/08 (Sun) 11:08:28
実相が現象として現れる説明①~実相が現象として現れる説明図
Web:粟野真弘のblog(2026年02月10日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/59686184.html
実相が現象として現れる説明②~実相世界にある〝理念〟とはこんなもの
Web:粟野真弘のblog(2026年02月19日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/59686185.html
実相が現象として現れる説明③~純粋形相としての理念
Web:粟野真弘のblog(2026年02月20日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/59686188.html
実相が現象として現れる説明 最終回~現象を映画に喩えて
Web:粟野真弘のblog(2026年02月21日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/59700993.html
<感謝合掌 令和8年3月8日 頓首再拝>
「実相」のみを実在として、その完全な相のみを見る - 伝統
2026/03/12 (Thu) 11:15:17
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(P114~115)
単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、
仮の相(すがた)であり、真実でないから、
それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。
ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。
かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、
人間は真に自由を得るのである。
多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。
そんな時に「悪」の存在を見ないで、
「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。
<感謝合掌 令和8年3月12日 頓首再拝>
現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統
2026/03/13 (Fri) 11:53:16
*「光明法語」(3月13日)より
何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。
それは現象を見るからである。
現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。
膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。
人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。
<感謝合掌 令和8年3月13日 頓首再拝>