伝統板・第二

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三界唯心の理 ③ - 伝統

2026/01/18 (Sun) 11:15:22


三界は唯心の所現

      *「光明道中記」(1月18日《高く騰(のぼ)る日》)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、
吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。

たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、
ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「三界唯心の理」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6950974

(2)伝統板・第二「三界唯心の理 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7969849
       
            <感謝合掌 令和8年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2026/02/02 (Mon) 11:58:27


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、
子に腹の立ったとき、親に腹の立ったとき、
そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、
こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

            <感謝合掌 令和8年2月2日 頓首再拝>

三界はただ見る人自身の鏡、最も美しき心によって世界を見んかな - 伝統

2026/02/25 (Wed) 11:23:30


     *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ
 実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。(『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、

「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」
の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、
主観によって、観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は
孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

           <感謝合掌 令和8年2月25日 頓首再拝>

心が物を作る~三界唯心である。 - 伝統

2026/03/04 (Wed) 12:51:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、
本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。

むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを
説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は
《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に
起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、
視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、
程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。
植物も動物も生まれない。

だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて
適当の温度の中で化合せしめても人体はむろんできないし、
植物はもちろん、微生物すらもできない。


《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、
偶然的なものではなく、よほど叡智的なものであることは、
人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでない
と造ることのできないような、最高複雑な組織のものであることや、
単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、同様の程度に
最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において
同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、
心のエネルギーは物質を動かす。

心のエネルギーが物質を動かすのは
心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに
高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだ
ともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、
考え方によって、どちらとでも言いうる。

どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、
宇宙の中に無限と1円とがともにあるならば、
宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、
無限は先であり、有限は無限の中に包摂せられる一部分である
という意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 令和8年3月4日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2026/04/13 (Mon) 10:39:29


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 令和8年4月13日 頓首再拝>

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