伝統板・第二

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肉体《無し》 ④ - 伝統

2026/01/26 (Mon) 11:59:40


肉体無を知り、生命の《ひとつ》流れを把握する

    *「光明道中記」(1月26日《万事和する日》)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                 (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに
深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに
此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、
肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

・・・

<関連)

(1)伝統板・第二「肉体《無し》」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7081156

(2)伝統板・第二「肉体《無し》 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7815445

(3)伝統板・第二「肉体《無し》 ③」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8235241

           <感謝合掌 令和8年1月26日 頓首再拝>

「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統

2026/01/28 (Wed) 10:25:46


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和すること
によって治る。

この反対の心持は病気を招くが、
そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ
 ―― まず「自己」を殺すこと。

「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。

「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、
もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。

「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、
もう「死〇」はないのである。

   *〇:ね

生き通しだぞ!  もう不死だぞ!  こういうしか仕方がない。

ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、
「死〇」の喝が効を奏する。

「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する
摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。

一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、
微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。

          <感謝合掌 令和8年1月28日 頓首再拝>

「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統

2026/03/05 (Thu) 11:15:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも
書いてあるのはこの理由である。

生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではない
という意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。

このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して
時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 令和8年3月5日 頓首再拝>

「肉体無し」と一躍超入せよ - 伝統

2026/03/31 (Tue) 10:45:47


     *「光明道中記」(3月31日《平らかな心の日》)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している
                   (『人間死んでも死なぬ』)】

「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、そんな方には
『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。
人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。
吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

            <感謝合掌 令和8年3月31日 頓首再拝>

肉体の「《有》・《無》」を超え、《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統

2026/04/05 (Sun) 11:12:08


   *「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                   (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。

もっと拡大して視ることもできるが、
その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」なる理念と合致するから、
その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」の
うちから人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、

今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも
相対的には本当であって、絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

            <感謝合掌 令和8年4月5日 頓首再拝>

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