伝統板・第二
”善”のみ実在する④ - 伝統
2026/01/31 (Sat) 10:08:03
絶対善を悟る日
*「光明道中記」(1月31日)より
【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、
既に善いとの想念は相手をよくする。 (『生命の實相』第七巻)】
すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。
病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのは
それは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって
真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。
されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。
吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。
形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。
「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、
屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。
阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。
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<関連Web>
(1)伝統板・第二「”善”のみ実在する①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6495764
(2)伝統板・第二「”善”のみ実在する②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6932920
(3)伝統板・第二「”善”のみ実在する③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7998620
<感謝合掌 令和8年1月31日 頓首再拝>
《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統
2026/02/17 (Tue) 10:47:36
*「光明法語」(2月17日)より
吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。
常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。
しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。
<感謝合掌 令和8年2月17日 頓首再拝>
善とは無縛を言う - 伝統
2026/02/19 (Thu) 10:42:09
*「光明道中記」(2月19日《無礙無縛の日》)より
【善にでも引っかると悪になる。
心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
病気を引起す。 (『生命の實相』第三巻)】
善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。
善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。
「善」とは形ではない。
「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。
「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと
「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。
だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、
生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。
また諸聖は曰く
「生きようと思ったら○ね」 (○:死)
「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」
「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」
私は曰く
「善とはなんぞや。生きることだ」。
「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。
<感謝合掌 令和8年2月19日 頓首再拝>
人時所三相応せるものが善である - 伝統
2026/02/24 (Tue) 10:02:12
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より
善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。
正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。
正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。
どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。
人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。
まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。
<感謝合掌 令和8年2月24日 頓首再拝>
善きもののみに触れる - 伝統
2026/03/18 (Wed) 10:33:17
*「光明道中記」(3月18日)より抜粋
《環境も大切である。環境を選ぶ日》
【欠点と自分と四つに組んでは欠点は直らぬ。(『生命の實相』第九巻)】
吾々の内部には全てのものを包蔵しているが、受動状態にある限りに於て、
外部から触発されたものだけが、内部から外部へと発現してくるのである。
即ち彼に触れることによって引き出されたものだけが引き出される。
吾々に赤い色の波動が触れれば、吾々の内部から赤の波動が引き出されて、
初めて其処に「赤」の感覚を生ずるのである。
この意味に於て、吾々に触れる物は環境にせよ、愛情にせよ、食物にせよ、
いずれも善きもののみを触れるようにしなければならない。
孟母三遷の故事もこの意味に於て価値があるのである。
<感謝合掌 令和8年3月18日 頓首再拝>