伝統板・第二
(三月)の法語 - 伝統
2026/03/01 (Sun) 04:39:09
このスレッドでは、他の掲示板等から、次の8つの法語を紹介してまいります。
(1)『 生長の家 』 昭和二十三年三月号法語
*Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13096845.html?type=folderlist (消滅)
(2)『 生長の家 』 昭和二十四年三月号法語
*Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/d/20140514 (消滅)
(3)『 生長の家 』誌 昭和二十五年三月号の箴言 (一日の法語 ~ 二十八日の法語)
*Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(4)『 生長の家 』誌 昭和四十年三月号の箴言
*Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(5)『 生長の家 』 昭和四十六年三月号法語
*Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12621806.html (消滅)
(6)『 理想世界 』 昭和四十三年三月号法語
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7703461
(7)「白鳩箴言~神と人間との交渉」(昭和四十八年三月)」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(8)『 生長の家 』「われら神の世嗣として(昭和48年3月)」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8322420
・・・
【一日の法語・言葉(3月1日)】
(1)《人生の問題は向上の段階》
人生の問題は
エスカレーター見たいなものである。
それに乗る事によって
人間の魂は進歩する。
それを避ける事によっては
人間は一層高き段階に上る事が出来ない。
併し人間は完全な自由を許されているから、
みずから進んで其のエスカレーターに乗らない事も可能である。
併し問題を避ける事によっては
人間は進歩しない。
問題は 人間を一層高い世界へ誘う招待状みたいなものである。
問題の解決は 唯 上昇の足場に過ぎない。
いかにそれを扱うかの心境に魂の進歩がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13096845.html?type=folderlist (消滅)
・・・
(2)《人間は神の自己顕現である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ea6279982ab50e1bf49551141362d738(消滅)
大自然は人間を神の自己顕現として、
肉体の上からも、精神の上からも、能力の上からも、
最高完全の神的標準に到達することを望んでいるのである。
そして、それは各人にとって決して不可能なことではないのである。
大自然が望むという事は、神が望むということであり、
神が望むということは 全能なる者が吾々をして、
斯く為らしむべくバックしているということである。
ただ不幸にして吾々がその完全の標準に到達することができないのは、
吾々が法則を守らないで、法則を破るからである。
(抜粋として)
大自然は人間を神の自己顕現として、
肉体の上からも、精神の上からも、能力の上からも、
最高完全の神的標準に到達することを望んでいるのである。
・・・
(3)《神は到(いた)る処(ところ)に在(いま)す》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
神は到る処に みちみちていられるのである。
神は 無限の愛であり 無限の智慧であり 無限の生命であり、
常に吾らを その無限の愛をもって 護(まも)っていられるのである。
・・・
(4)《神を金融業者と間違えてはならない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
神は高利貸でも、銀行屋でもないから、上手に説き服せたら
金を貸して下さるというような方ではないのである。
キリストが説いたように
「 人は二人の主(しゅ)につかえることはできない 」のである。
私たちは「 物質の幸福 」を求めている限りに於いて、
霊的な主につかえることはできないのである。
・・・
(5)《“二つの世界”に生きる私達 》
私たちは、二つの世界に住んでいるのである。
それを縦横十字の線で表現してみるならば、
縦の線は、神からつながる生命の線であり、
神から延長された“ 実相世界 ”を表現するのである。
そして横の線は、
空間的に横にひろがる現象世界を表現するのである。
図解的にいえば、
その縦横十字の交叉点に存在するのが吾々の生命である。
縦の生活に於いては
神からつながる“ 神の生命 ”( 神の国 )を生き、
横につながる“ 心の展開 ” としての世界では
現象世界を生きているのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12621806.html (消滅)
・・・
(6)《人間は目的をもち理想をもたねばならぬ 》
人間として地上に生まれた限り、
あなたは生きるための”目的”をもたねばならぬ。
目的という語ではいくぶん足りない気がする。
それでは“理想”をもたなければならない。
目的を持たず、碌々として人生を行き当たりバッタリに生活している者は、
その人の経済的状態が豊かであっても、精神的には浮浪者であり、ルンペンである。
近頃、フーテン族という種類の若い人があらわれて来て、
髪を長く伸ばして額と顔の半分ほどを乱れた髪で蔽い、
何の働きをすることもなく、食べ物を、他人の戸口で乞い歩く者が
出ているが、人生に目的も理想も持たない場合には
自然にこんな姿になりさがってしまうのである。
肉体も服装もすべて自分の心の投影であるからである。
・・・
(7)物質文明のもたらす精神的公害
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
「國民所得が豊かな先進國ほど、犯罪の發生が多くなつてゐる。
これは高度に物質文明が發展した國の人々は、
かへつて不幸な人生をもつている一つの證據である。」
「個人の人生に生き甲斐が失はれてゐるために、
いろいろな事件が續發する。」
「日本などでは物質文明の發達に伴ふ物質的公害などといふものが
世界の先端を切つて問題にされてゐるけれども、
更に精神環境の惡化といふことについて、
その原因をはつきりしなければならない。」
・・・
(8)あなたの自縄自縛を解け
あなたは自分の”心”を自己劣等感や、無駄な躊躇逡巡で、
自縄自縛してはなりません。
あなたは”神の子”として、神の最高實現として此の地上に
生を享けたのであるから、神から遺傳され、神の世嗣として
あたへられてゐる能力は、神そのものの如く無限なのですから、
自己縮小する事を止(や)めなさい。
・・・
<参考:3月の谷口雅春先生の言葉>
(1)弥々生うるいのち~「生命の實相」第37巻幸福篇上
→ (光明掲示板・第二)
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1215 (消滅)
伝統板・第二「弥々生うるいのち」(光明掲示板・第二)
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7828988
(2)神は愛なり~光明法語<道の巻>
→ (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=72
(3)弥生「万物めぐむ」~光明道中記
→ (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=73
<感謝合掌 令和8年3月1日 頓首再拝>
【二日の法語(3月2日)】 - 伝統
2026/03/02 (Mon) 04:57:18
(1)《同じ問題でも受け方で魂の向上が異う》
かりに或る人が泥棒に着物をとられたとする。
甲は それに対して嘆き かなしみ失望し落胆する。
併し乙は それに発奮して、
とられた以上のものを稼ぎ出そうとして 大いに仕事に努力する。
丙は 俺もとられた、だから取り返してやれと思って
自分も泥棒になる。
丁は 自分の不注意に気付いて
今後の生活をもっと慎重にする。
戊は 自分の不注意に気づいて
一層 謙遜になる。
広島の宮田講師は 「 自分の着物は 余っているのであるから
自分で持って往って差し上げたいと思っていたのに、
取りに来て下さって有難い 」 と合掌した。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13098489.html?type=folderlist (消滅)
・・・
(2)《楽なと云う誘惑に負けるな》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a6b2c549cb3d7b00ec804b63ed14c8da)(消滅)
向上すべきその道 ( 法則 ) を
逆に下へおりて行く者は、自ら堕落する者である。
何事をなすに意志の力が必要である。
柔弱なる意志を以て法則を守ればいい時に、
守らないで誘惑に負けてしまうようでは、
神が目標としたまうが如き完全さを
成就する事は 到底 不可能なのである。
すべて物事を完成するのは
「 この方が楽だ 」 という誘惑に耳をかさず、
法則の示す所に鞏固(きょうこ)なる意志をもって
進んで行く事によって得られるのである。
(抜粋として)
すべて物事を完成するのは
「 この方が楽だ 」 という誘惑に耳をかさず、
法則の示す所に鞏固(きょうこ)なる意志をもって
進んで行く事によって得られるのである。
・・・
(3)《人間は神の意識的顕現》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
人間は神の創造力の最も精巧なる現れであり、
神の最高顕現として、また意識的顕現として
一切の現象を支配する力を与えられているのである。
神だけでも宇宙の創造は完成しないのであって、
神と人間と相よって宇宙の創造は完成するのである。
・・・
(4)《霊か、物質か、いずれを選ぶか》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
神はただ霊の賜物(たまもの)のみを与えたまうのである。
「 神は霊なれば拝する者も霊と真(まこと)とをもて拝すべきなり 」
(『ヨハネ伝』第四章二四節)とイエスは教えていられるのである。
・・・
(5)《自己拡張欲の衝突の世界》
人間は、横につながる“ 心の展開 ”としての現象世界では、
彼の内包する“ 無限 ”を空間的に表現せんと欲するが故に、
自己拡張、自己伸展を主として願うのである。
しかもその表現の場である地球という天体は面積に限りがあるが故に、
自己拡張せんとする者たち互いに衝突し、自己伸展せんとする者同士が
奪い合いを演ずることになるのである。
これは、“ 無限 ”と“ 有限 ”とが交叉する一点に立って
人間が生活しているが故に、
そしてその“ 無限 ”が“ 有限 ”を通して表現せんとする
自己矛盾を原因とした宿命的事実から生ずるとも解釈できるのである。
兎(と)も角、今までの地球上の生物の生活は、
この“ 無限 ”が“ 有限の世界 ”に於いて自己発展し、
自己主張するため 闘争の世界であったと言い得るのである。
中東でのイスラエルとアラブ諸国との紛争、
アメリカ陣営と共産陣営との紛争又は戦争、
いずれも異るアイディアの自己表現・自己主張・自己拡大の衝突である。
私は悲しい思いでそれを看戍(みまも)っているのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12621860.html (消滅)
・・・
(6)《百合には百合の目的が、人間には人間の目的が》
人間が地上に生を享けて目的をもち理想をもつためには、
”人間とは何ぞや”の根本自覚を先ず得なければならないのである。
人間がユリの花であるならば百合の花を咲かす目的又は理想をもつであろうし、
人間が桜であるならば、桜の花を咲かす目的又は理想をもつであろう。
無論、人間は植物ではない。
地上に人間が生まれた目的は百合の花を咲かせることでも、
桜の花を咲かせることでもない。
しかし私が言いたいのは、
百合には百合でなければ咲くことのできない花を咲かせるし、
桜には桜でなければ咲くことが出来ない花を咲かせるという事である。
そこにはその食属独特の特徴ある花の形を発揮するという事である。
そうすれば、人間は、どんな植物にもどんな動物にもない独特の特徴ある
天分を発揮するところに、吾々人間がこの世に生まれた目的があり、
理想があるのではないだろうか。
・・・
(7)科學文明よ傲ること勿れ
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
これは物質的欲望がいかに滿足せしめられても、
魂は却つて飢ゑるといふことをあらはしてゐるのである。
だからイエスは
「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づる言葉による」
といつてゐるのである。
愛のない物質的な社會施設だけでは
人間の魂の飢を滿たすことはできないのである。
物質的な日本列島改造よりも、その改造の最も根源的なる
”精神的なるもの”が改造せられなかつたら、改造を加へれば加へる程、
また次の別の公害があらはれて來るのである。
科學文明よおごる勿れである。
・・・
(8)あなたの”内”にある大力量人を覺醒させよ
神をあなたの外にあつて、
あなたを規制してゐる権威だと思つてはなりません。
神はあなたの魂の底の底に、生命の根底に存在したまふ
あなたの實相なのであります。
その實相が肉體といふ物質層に埋められたまま、
長い間忘れられてゐたのです。
この事を『無門關』の公案二十則には、
「大力量の人、甚(なえ)に因つてか脚を擡(もた)げ起さざる」
と示されてゐる。
わたし達の”生命の根底”に、魂の底の底に、
神の生命なる” 大力量の人”が宿つてゐる。
その” 大力量の人”を何故お前は目醒めしめて活躍せしめないか
といふ意味である。
<感謝合掌 令和8年3月2日 頓首再拝>
【三日の法語(3月3日)】 - 伝統
2026/03/03 (Tue) 04:54:27
(1)《祈りの実現には時間的要素がいる》
祈りは必ず成就するのである。
祈りとは 常に深く魂の奥底で
繰返している言葉である。
呟(つぶや)く者には
呟くような事が出て来るし、
悲しむ者には
悲しむような事が出て来る。
喜べば 喜ぶような事が出て来る。
併し今日祈ったからとて
明日必ず成就するとは決まっていない。
種子を蒔いても
明日生えるとは定まっていない。
併しそれは永久に生えないのではない。
性急では いかぬのである。
花を求めているのに、
嫩葉(ふたば)が出たからとて
祈りが きかれぬのではない。
嫩葉は 花のもとである。
(抜粋として)
祈りは必ず成就するのである。
祈りとは 常に深く魂の奥底で
繰返している言葉である。
併し今日祈ったからとて
明日必ず成就するとは決まっていない。
併しそれは永久に生えないのではない。
性急では いかぬのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13102172.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《神業を成就せんがために肉体を正しく使え》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d63e57736d0871bf7c1900b6faaba805(消滅)
吾々が人生に生まれたる目的は 常に云う通り、
神の み業を地上に於て成就せんがためである。
それは 「 み業 」 であるが故に、 「 働き 」 である。
従って吾らが地上に生まれたる目的は
働くことによって 神の目的を成就するにあるのである。
その働きの完全さは「 質 」と「 量 」とで測られるが
善き質の働きを 大いなる分量に なし遂げるには
吾々の肉体を、そして精神能力を、
実に最高完全に発揮することによってのみ 可能なのである。
吾々は 肉体力を無駄な遊蕩(ゆうとう)に浪費して
その働きを不完全ならしめてはならないのである。
(抜粋として)
吾々が人生に生まれたる目的は 常に云う通り、
神の み業を地上に於て成就せんがためである。
従って吾らが地上に生まれたる目的は
働くことによって 神の目的を成就するにあるのである。
・・・
(3)《法則は受動者であり 人間が主動者である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
人間は自然界の法則を駆使して事物を創造する。
法則は 神の 「 受動的現われ 」 であり、
人間は 神の 「 能動的な現われ 」 である。
・・・
(4)《天国を地上に実現するには》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
天国が地上にあらわれるためには、
人間自身が一変して、地的な欲望を去り
天的にならなければならないのである。
神は霊であるから、神を愛するならば、
もっぱら霊を愛しなければならないのである。
・・・
(5)《わが国は此の世の国に非ず》
イエスは矢張(やは)りこのような闘争の世界を悲しんだのであろう。
何故、人間は争ったり、戦ったりしなければならないのだろうか。
イエスは「 此の世の力 」 ( 現象界の政治的権力及び宗教的権力 )
に抗(こう)して起った。
彼はローマ政府の迫害を受けた、
そしてローマ政府に勝つことが出来ないで、
十字架に磔(はりつ)けられたのであった。
しかしイエスは 「 わが国はこの世の国に非ず 」 と言い、
また 「 われ世に勝てり 」 といっているのである。
現象の世界にいくら勝利を得たにしても、
結局は現象界はうつり変る世界であるから、
その勝利した状態は、やがて “ 無 ” に帰する世界である。
私たちが本当に勝つのは「 “ 無 ” に帰する世界 」 でない
ところの世界に於いてでなければならない。
即ち 「 わが国はこの世の国に非ず 」 でなければならないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12627438.html(消滅)
・・・
(6)《人間は植物以上、動物以上に超出しなければ意義はない》
百合にも桜にも、潜在的な意識があるので春が来ればそれを知り
新緑の新しき若葉を出し、それぞれの季節を知って、
その季節に応じて花を開く。(拙著『生命の謎』参照)
しかしこれら凡ての植物には”意識的な心“又は”自覚的な意識”
心理学用語で言えば、“現在意識”と称するような心はないのである。
ここに吾々は人間が地上に誕生した意義又は目的を見出すことが出来るのである。
人間は百合でも、桜でも、豚でも鶏でもないのである。
人間は植物以上のものであるのは勿論のこと、動物以上のものである。
人体の一部の構成要素の中には植物的働きをする神経繊維もあれば、
植物性酵素のような成分もある。
更に脊椎動物と殆ど異ならない生理的構造と****及び食欲の如き
動物と全く異なることなき本能的欲望を備えている。
この限りに於いて、そしてその本能的欲望を満足させることだけしか
人間がしないならば、彼は、動物の高さ以上に一歩も出ないのであって、
特に人間として地上に吾らが生を享けて誕生した意義も目的も理想もない
と言わなければならないのである。
・・・
(7)人生の厩橋側と上野公園側と
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
わたしたちの運命は”自分の心”のタイプに從つて、
同じタイプのものが引き寄せられて
運命の形を生成して行くのである。
科學的に安全だと思ふ方に走つても、
それは却つて”死滅の道”であることがあるのである。
たとへば五十年前の關東大震災のとき、わたしは
東京淺草區松葉町にある寺院の境内に建てられてゐた
二階家を借りて執筆生活をしてゐたが、
大正十二年九月一日、正午二分前になると突然二階は
將に難破せんとする小船のように揺れ出したのであつた。
辛うじて階下に降り、境内の地面の上にとび出して、
その後の地震の繼續の有樣を見てゐたのであるが、
餘震は暫くでは止みさうもないのである。
揺れが静かになりかけたと思ふと以前より大きくまた激しく揺れる。
その内に四方八方、焔の海になつて來たのであつた。
私たちの逃れて行く道は唯二つあつた。
一方は厩橋の方であり、もう一方は上野公園の方であつた。
どちらを選ぶかは、瞬時を爭ふ危急の場合で理屈はないのである。
人間は、ただ「フト思ひついた方」へ走り出す。
そして厩橋の方へ逃れて行つたものは、焔にとりかこまれ
酸素に欠乏した空氣の中で倒れて數萬人が焼け死んだのであつた。
わたしは幸ひにして上野公園の方に逃れたので、
公園には延焼して行くべき密集した建物が無いので、
焔にとりまかれることはなく數萬人がそこへ逃れて助かつたのであつた。
死の方向を選ぶか、生の方向を選ぶかには咄嗟の場合で理屈はない。
ただ「フト思ひ浮かぶアイディアに動かされて行動するだけなのである。
その「フト思ひ浮かぶ」といふのは果たして何者が「フト思ひ浮かばす」
のであらうか。
・・・
(8)あなた方は皆、大通智勝如來である
『無門關』といふのは御存知の通り禪宗の經典のうちでも特にすぐれたる
公案集だと言はれてゐるのであるが、
その第九則に「大通智勝」といふ公案がある。
これは法華經の”化城喩品(けじょうゆほん)”の中にある大通智勝如來
といふ久遠無窮の過去から存在したまふ大通力無限智の如來が
十劫の間も結跏趺坐して悟りを得ようとしたが、尚この如來悟りを得ず、
佛法がこの如來の生活に實現しなかつたといふ事が書かれてゐる。
その法華經の一節を採り上げて、或る僧が興陽の譲和尚に問答を仕掛けた
言葉のやり取りが公案になつてゐるのである。
その言葉のやり取りは、
「興陽の譲和尚。因みに僧問ふ、
大通智勝佛、十劫道場に坐して佛法現前せず・・・・・既に是れ道場に坐す。
なにとしてか佛道を成ずることを得ざる。
譲曰く、伊(かれ)が成仏せざるが爲なり」
となつてゐる。
この「伊(かれ)が成佛せざるが爲なり」といふことが
公案解決の中心命題なのである。
誰でも大通力、無限智能を備へてゐる。
神の子である。
謂わば各人それぞれが” 大通智勝如來である”のに、何故、
その大通力を發揮して決然と起ちあがらないのであるかといふのは、
禪宗の坐禪修行の公案だけの事ではないのである。
各人が今各自の人生に於て與へられてゐる『人生の公案』なのである。
各人自らこの人生の公案を解決する時、各人はそれぞれその大通力を
發揮することが出來るのである。
だから無門和尚の評譯には「凡夫若し知らば即ちこれ聖人」とある。
(谷口雅春著『無門關解釋』参照)
<感謝合掌 令和8年3月3日 頓首再拝>
【四日の法語(3月4日)】 - 伝統
2026/03/04 (Wed) 05:00:57
(1)《花を求めて果実を与えらる》
大抵の人は自分自身の与えらるべき、
そして成しとげ得べき能力を自覚していないので、
それより小さいものを求めがちである。
然も最初に与えられるのは、
自分の求めたものより小さいのである。
それは花を求めて 嫩葉(ふたば)を与えられた如きである。
併し神は花以上に、
更に吾らに大いなる美味なる果実を与えるべく
嫩葉を先ず用意せられたのである。
祈りが成就しないのではなく、
祈りは成就しつつあるのである。
それなのに ただ自分が性急な為に
成就しないと見誤るのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13105196.html?type=folderlist (消滅)
・・・
(2)《健康とは調和である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6f45f7a9ae28413739cf381ebfe69b51(消滅)
完全に肉体及び精神の発揮する為には
吾らは健康でなければならぬ。
健康とは 肉体が完全に調和して活力が旺盛であり、
心の命ずる所に従って自由に肉体が動作し、
脳髄がその機能を営み、
しかも長く疲れないで
その働きが 常に活発であるという事である。
もし吾々の肉体が真に健康である場合には、
その肉体の活力が 精神に影響を及ぼし、
精神の営む仕事の性質を 尚 精妙たらしめ、
且つ その分量を 尚 一層多からしむるのである。
(抜粋として)
健康とは 肉体が完全に調和して活力が旺盛であり、
心の命ずる所に従って自由に肉体が動作し、
脳髄がその機能を営み、
しかも長く疲れないで
その働きが 常に活発であるという事である。
・・・
(3)《物質は法則の現われ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
法則は材料であり、人間が創造者である。
だからどんな物質でも、それ自身は法則の現われであって、
毒になるとか薬になるとかというような
自性(じしょう)はないのである。
だから物質には自性はなく、人間が主動者であるのである。
・・・
(4)《戦争は 「 心の状態 」 の投影である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
一所懸命 祈ったら、神はその祈りに答えて下さりそうなものであるのに、
何故 その祈りがきかれないで、戦争は止(や)まなかったのであろうか。
それは人間自身が変らないからである。人間自身を変えないでいて、
戦争と称する 「 物質的状態 」 だけを変えようと試みたからである。
「 物質的状態 」 は 「 心の状態 」 の投影(かげ)であるから、
「 心の状態 」 を変える祈りこそ 先ず為すべきであったのに、
それが為されていなかったのである。
・・・
(5)《“ 肉体 ” は本当の自分ではない》
現実の人間は、“ 肉体 ”と称する“ 物質の体(たい) ” と
霊体(又は幽体)と称するところの
“ 物質以上の霊的な体(たい) ” と、
その奥に、“ 実相 ” と称するところの
“ 理念の体(たい) ” をもっているのである。
一般人は、肉眼で “ 肉体 ” だけを見て、
それを “ 自分 ” の全部だと思って、
” 肉体 ” を楽しませる事を“ 自分 ”を良くすることだと思って、
肉体的、物質的な利欲の追求に余念がないような状態であるけれども、
肉体という “ 波動の体(たい) ” は、
地上で、その人の生命が使命を果すための一種の宇宙服であって、
地上の使命が終ると結局消えてしまう運命にあるのであって、
それは、 “ 本当の自分 ” ではないのである。
“ 本当の自分 ” というものは、永遠の価値あるところの
永遠に存在するものでなければならないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12630675.html (消滅)
・・・
(6)《動物性の土台に神聖性を接木した人間》
僕が不思議に思うことは、現行の日本国憲法はが、食欲や****の如き
動物的欲望の満足を願うことを基本的人権として大いにそれを尊重し、
その追求満足を擁護し、推奨しているという事である。
つまり、人間存在の意義を動物性の欲望の水平面まで押し下げていることである。
そしてそれを「人間性の復活」の如く世界人権宣言の実行の如く
誤解させていることである。
岡潔先生もいわれるごとく、「人は動物だが、単なる動物ではなく、
渋柿の台木に甘柿の芽を接いだようなもの、つまり動物性の台木に
人間性の芽を接木したものと言える」のである。
動物性の本能を持った脊椎動物と異ならない台木の上に、
人間性(もっとと精確に言うならば神性)の芽を接木したようなもの
が人間である。
これは渋柿の台木の生命力が強いので、甘柿の美味しさを具体的に
果実として押し出すために渋柿の生命力を利用したのであって、
渋柿そのものの“渋い味”を発揮させるためや渋柿の果実を得るため
ではなかった筈である。
それなのに現行の日本国憲法が動物的な食欲と****とを基本的人権として
奨励鼓舞していることは、接ぎ木の台木それ自身から芽を出して
“渋柿”の果実を得るように奨励しているようなものである。
これでは神様(又は“大自然”)が、動物性の上に更に人間性(又は神性)を
接ぎ木せられた意義が失われてしまっているのである。
・・・
(*岡潔先生 参考Web:則天去私(2018年02月22日)天才―岡潔
→ http://tecnopla1011.blog.jp/archives/74564237.html )
・・・
(7)人間の運命を指導する神祕な力
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
人間の運命 ―- 時としては國家の運命 ―― をすら
左右する不思議な力であるところの” フト思ひつく”といふ想念は
一體どこから來て私たちを導くのであらうか。
ある人は、「この株を買つたら、儲かるだらう」とフト思いついて
株を買つたら暴落して大損をするのである。
またある人は「この馬こそ一著になる大穴馬だ」と思つて
馬券を買つて損をする。
その反対にフト思いついた事業が大發展して一大資産をつくる人も
あるのである。
心理学者は、この不思議な”聲なき囁き”の正體を
潜在意識の囁きだと解釋する。
あなたの潜在意識には一體何が潜んでゐるのであらうか。
・・・
(8)汝のうちにある神性を”言葉の力”によつて喚び出すこと
三月號の『光の泉』の「易しく書いた”生命の實相”讀本」の欄に、
私は肺動脈瓣狭窄症といふ重症の心臓弁膜症にかかつて
長期間病床に横たはつて恐怖のために動けなかつた安藤嚴君が
「今斷々乎として病なきことを信じて起て」といふ『生命の實相』の生活篇
にある文章に奮起して病床から起ち上がつた事實を書いたのであるが、
安藤嚴君は、その體験談の中で
生長の家の推薦する神性自覺を喚び出す祈りの
「わが魂の底の底なる力、無限の力湧き出でよ」
といふ言葉を幾度も幾度も繰返し、つひにその言葉の力によつて
「人間は病むべきもの」といふ迷妄を吹き祓つて
つひに健康體として起ち上がつたのであつた。
<感謝合掌 令和8年3月4日 頓首再拝>
【五日の法語(3月5日)】 - 伝統
2026/03/05 (Thu) 04:55:49
(1)《謙遜にそして勇敢に》
自分を高慢(たかぶ)っても可けないが、
自分を買いかぶっても可けない。
全てのみわざは神が成し給うので
自分が偉いのではないから
高ぶってはならない。
併し全ての“みわざ”は神がなし給うのであるから、
そんな力はないなどと
自分を卑(いや)しめてもならない。
「 謙遜にそして勇敢に 」 と云うことが
神の子の標語でなければならない。
神に泣きつくように 「 どうぞこれを成し給え 」 と祈るのは
神を信じないものである。
魂の底深き願いが起るのは、
既に内在の世界で成就しているからである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13107742.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《人生の目的達成には健康が必要である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9bba2a69c7a35da352ed611c201ffad0(消滅)
もし肉体の健康が低下するならば
心の能率も低下するのである。
天才的な大画家でも、
病苦の真只中に於ては
完全なる製作は続けることはできないのである。
たとい病苦を我慢して製作を続けても、
この製作の成績は劣ることになるのである。
されば如何なる精神的仕事といえども、
肉体の健康と精力旺盛とが伴わなければ、
完全に遂行することはできない。
そこで肉体の完全なる健康は
如何にして得ることができるかが問題となるのである。
(抜粋として)
もし肉体の健康が低下するならば
心の能率も低下するのである。
そこで肉体の完全なる健康は
如何にして得ることができるかが問題となるのである。
・・・
(3)《法則も智慧も神から来る》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
法則を駆使する所の力は 吾々の智慧から出て来るのである。
その智慧は 神から出て来るのである。
・・・
(4)《世界平和のための祈り》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
戦争は結果であり、争闘精神が原因でありますから、
戦争の根源となるべき
争闘精神が無くなることが先ず必要なのである。
私たち生長の家の信徒は、
唯(ただ)
「 神の無限の愛 われに流れ入り給いてわれに於いて光明燦然と
輝き給い、その光 愈々輝きを増して全地上を覆い すべての人類の心に
愛と平和の思いを以って満たし給う 」
と祈ることにしたのである。
愛と平和の思いに満たされたら争闘精神はなくなり自然に戦争はやみ、
平和が招来されるからである。
・・・
(5)《人間の実相は “ 無限に生きるもの ”》
“ 本当の自分 ”というものは 変化し、常住の姿なく、
移り変って結局消えて行くような「 肉体 」ではない、ということは
どうして判るのであるか ー というと、
私たち人間は、心の奥底に、
みな永遠に生きたい願いをもっているからである。
“ 有限の肉体 ”が どうして
“ 永遠の生命 ”(無限)を願うのであろうか。
“ 有限 ”から“ 無限 ”が出て来る筈(はず)は
あり得ないのである。
“ 無限 ”は“ 無限 ”からのみ出て来なければならない。
“ 無限に生きたい ”という願いが
人間の心の奥底から生まれて来るのは、
“ 無限に生きること ”が人間そのものの本性(ほんしょう)で
あるからでなければならないのである。
それ故に 人間の実相は
“ 無限に生きるもの ”であるといわねばならない。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12633110.html (消滅)
・・・
(6)《動物以上の人間の特長とは何であるか》
人間が単に、動物と異ならない食欲、****の満足以上に
高邁神聖なる本性を発揮し得ないならば、
それは「人体の形を備えた動物」であって、
神が特に人間を地上に生み給うた目的又は意義を完うするとは言えないのである。
人間が人間たるためには、食欲、****の如き、動物との共通性以上に、
特に「人間」なるものの特長を発揮しなければならないのである。
人間が人間たる特徴とは何であろうか。
食欲****を単に本能の跳梁に任せず、それを道徳的目的――愛他的目的――
のために制御統制して秩序あらしめることである。
乱倫乱婚の如き状態は、人体を備え乍ら、
なお動物的境涯をその人は脱していないことをあらわしている。
或る○○をしている少女を捕えて、警官が補導したら、その少女は
「どうして○○が悪いのか私にはわからないわ。自分も楽しくて
相手の人も楽しんで、そしてお金が儲かるんだもの。どこが一体悪いの?」
と酒蛙々々(しゃあしゃあ)と言ったのには、補導の警官も
説明の仕様がなくて困ったという事がある週刊詩に書いてあった。
〇〇=春を売る事。
・・・
(7)吾らはみな”天才”である
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
われわれが研究して結論を得た心靈學では、
人間の魂が地上に降誕すると、それを指導するための守護神が、
祖先靈の内の靈的に發達したる高級靈に属する靈が産土神により
指名せられて、その人間の一生涯の守護神となるのである。
これを正守護神といふ。
それは一生涯交代することなくその人に付き添ふて
その人の魂を指導するのである。
(中略)
いづれにせよ、高級靈なる神秘的叡智者なる靈がわれわれには、
生まれるとすぐ吾らと偕にあり、その叡智に感應して
”天才”が發顕して來るのである。
だから吾々は本來皆”天才”であり、
肉體智以上の力を發顕し得る素質を備へてゐるのである。
われわれは皆”天才” (ゲーニウス)を内に宿しているけれども、
現象的には皆”天才”になれる譯ではないのである。
それは何故であらうか。
守護神は”靈”であつて肉體ではない。
われわれ自身と守護神(または守護靈)との關係は、
霊と靈との關係であるから、靈的に互ひに波長があつてこそ、
互ひに感応通行し得るのである。
ところが肉體を現じている人間は往々にして
肉體的欲望及び物質的欲望の虜となり、
その精神が物質的方向に傾けば傾くほど、その人の精神波動は、
守護神の高級な靈的波動の振幅に周波數が合はなくなる。
そのために、その人の魂は、折角つきそつてゐて下さる守護神の
助言の囁きが聴えなくなり、不測の災禍が起る直前に、
守護神は「早くここから逃れよ」と囁くけれども、
その囁きを聴くことが出來ずに、その人は
不測の慘禍をまともに受けることになるのである。
・・・
(8)”甘える心”を棄て去ること
人が”神の子”たる實相を自覺する上に
障碍(しょうげ)となるところの想念感情は
”甘える心”を起す事である。
換言すれば”同情されたい”といふ念を起す事である。
また「このくらゐなら、人が我慢してくれるだらう」と考へて、
自己の努力を最大限迄出さずに、他の人の寛大さや、
甘さに縋つて行かうとする生活態度である。
また、病氣や色々の都合を、自分が全力を出し切らずにゐられることの
口實やアリバイに使おうとするすることである。
これらの「甘える心」又は「甘える生活態度」はその人の能力の發揮を
自縄自縛してしまひ、最高の高さまで自分の天分を發揮することが出來ず、
自分自身を一般凡用者の一群の中にまで堕落させてしまふ事になるのである。
安藤嚴君は自分自身が病氣を口實にして母親に甘えるための
資料としてゐた事を反省した時、彼の難治の肺動脈瓣狭窄症から
起ち上つたのであつた。(『光の泉』三月號参照)
<感謝合掌 令和8年3月5日 頓首再拝>
【六日の法語(3月6日)】 - 伝統
2026/03/06 (Fri) 04:59:49
(1)《争い勝つ祈りはきかれない》
神は一人の人間の親に非ず、全ての人間の親であるから、
一人の人間のみ、又は一個の民族のみ栄えて、
他の人 又は 他民族の栄えぬ様に祈る祈りはきかれない。
凡(おおよ)そ、他と争うて自分が勝つ為の祈りはきかれない。
「 祈りがきかれる 」 とは 実相世界にある永遠の秩序を
言葉の力によって呼び出すのであるから、
実相世界に“ない”ものをいくら祈っても
それは“神によっては”与えられるものではない。
実相世界には争いもなく、
争いに勝つと云う事もないから
争い勝つ祈りはきかれない。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13111474.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《心を楽観的に有(も)て》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/786363eb0e47603eeb0fa3f979b655ab(消滅)
すべて楽観的な人生観をもたない時には
人間は決して健康を長く持続することはできないのである。
多くの智能の優れた人達は病気であって、
その人が健康であったならば成し得た筈の
半分の分量程も成し遂げ得ないで
この地上を去って行っているのは悲しい事である。
吾々の人生観が健康に影響するのは、
暗い悲しい人生観をもっている限り
その人の精神は 常に憂鬱であり、不快であり、腹立たしく、
常に焦々(いらいら)していなければならないのであり、
それが肉体全体の活力に相互作用を及ぼすのである。
(抜粋として)
すべて楽観的な人生観をもたない時には
人間は決して健康を長く持続することはできないのである。
・・・
(3)《神を内に自覚する時、力が湧き出(い)でる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
神は 常に吾と ‘ とも ’ にあるのである。
いつでも吾々がそれを自覚する時、
神の力が湧き出て来るのである。
・・・
(4)《“儲け”ないで“儲かる”方がよい》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
「 儲けよう 」 と思ってする仕事は儲からず、
本当に、最大多数の人のためになる仕事をしようと、
「 儲け 」( 物質的欲望 ) を度外にして、
人類の為になる新しきアイディアに燃える人が却って儲かるのである。
リコーの市村社長も“ 儲‘け’る事業と儲‘か’る事業 ”と
‘け’ と ‘か’のたった一字違いだが其処に非常な相違があることを
指摘しているのである。
・・・
(5)《肉体としての自覚から脱却して》
肉体というものは毎****滅しているのである。
それを普通われわれは新陳代謝と称しているのである。
即ち 古き細胞は 間断なく死んで
新生をした細胞と置き換わっているのである。
「 死すべきものは我にあらず 」 と 『 久遠いのちの歌 』 にあるように、
そのように新陳代謝する肉体は、人間のほんとうの「 我 」ではない
ー 「本当の自分」ではないのである。
肉体というものを「 本当の自分 」だという自覚しかもっていないものは、
創世記の第二章に録(しる)されているところの
「土の塵(ちり)にて造られたもの」であり、
「 汝は塵なれば塵に還るべきなり 」(「 創世記 」第三章十九節)と
神に宣告されたる者に過ぎないのであって、それには永遠の生命はなく、
寿命尽きたら“ 塵 ”( 微粒子 ― 宇宙の物質的元素 )に帰るほかは
ないのである。
私たちが“ 永遠の生命 ” を得るためには、
私たちは人間を「 塵 」(物質的元素)の集合体ではなく、
「 霊的実在 」 であるという自覚にまで復活しなければならないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12637259.html (消滅)
・・・
(6)《台木ばかり発達して精神の枯れた人間》
岡潔先生は「戦後、義務教育は延長されたのに
女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっている。
・・・・・人間性を抑えて動物性を伸ばした結果に他ならないという気がする。
たとえば、牛や馬なら生れ落ちてすぐ歩けるが、
人の子は生まれて、一年間ぐらいは歩けない。
そしてその一年の間にこそ大切なことを準備している。
とすれば、成熟が三年も早くなったのは、人の人たる所以の
ところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか」
と言っていられる。
私は人間の肉体面の成熟が三年も早くなったのは、肉体的欲望を基本的人権として
大いに鼓舞奨励し、各県や各学校に体育館の設立を促進して肉体ばかりの発達を促す
国家の政策(その奥には現行日本国憲法がある)が大いに影響している
と私は思うのである。
体育館はあるけれども心育館も養心会館もなく、
その方面には政府はタッチしてはならない。
宗教に政府が援助してはならないのは勿論、教育は中立性を持たねば
ならぬから文部省が教科課目などに干渉してはならぬことになっているので、
政府は肉体の方の発達ばかりに、吾々の税金を使うばかりである。
だから、渋柿の台木に接いだ甘柿に「人間」というものを喩えるならば、
渋柿の台木の方から出る芽ばかりを尊重して、その方ばかりを伸ばす
肥料をやっているから、渋柿の台木から旺んに渋柿の新芽を吹いて
元気旺盛で、それに折角接ぎ木をした甘柿の芽の方は伸びるに伸びられず
枯れそうになっているという訳だ。
体育旺んにして心育を忘れたのは、“肉体”という台木に“神性”の
新芽を接ぎ木した人間という存在が神性の新芽は枯れて肉体の台木のみ
旺んに****、食欲、所有欲の芽を吹いている恰好である。
この状態がいつまでも続くならば、地球上には人間は一人もなくなって、
”人間”の形をした動物ばかりになってしまうのである。
これで、いくら”平和”を叫んでみても、動物性と言うものは結局、
****、食欲、所有欲のために争闘する程度の発達しか遂げていないので
あるから、地上に平和が持ち来たされることは到底不可能のことと
いうほかはないのである。
(7)古代ギリシャ人の考へた守護靈
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
・・・
(8)自己憐愍(れんびん)の心を棄てよ
自分自身を”弱い”などと考へる心は”甘える心”だ。
それは自己憐愍の心であつて、自分が自分に甘えてゐるのだ。
自己憐愍を棄てない限りは人間は強くなれない ―― 換言すれば
”神の子”の自覺と能力を完全に發揮することが出來ないのである。
<感謝合掌 令和7年3月6日 頓首再拝>
【七日の法語(3月7日)】 - 伝統
2026/03/07 (Sat) 05:01:40
(1)《人類の進歩に逆行する祈りはきかれぬ》
凡そ人類の進歩に逆行する祈りはきかれない。
神は地上に自己の無限内容を
無限生長 又は 無限進歩の形で表現したまうのが
現象世界の使命であるからである。
アメリカで始めてトーキー映画が登場したときに、
その音楽だけは 生きた音楽家を出演させてくれねば、
多くの音楽家の死活問題であるからとて、
生きた音楽家の出演しない映画館に対して
入場拒絶同盟を結ぼうと云うので調印を求めて廻った者があった。
その時、光明思想家のテリル・マン氏は
それは人類の進歩に逆行すると云って其の調印を拒絶した。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13115133.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《「 人生 」 を彫刻する道具を大切にせよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/83cdf00cc2b4683e48b89e6342f96730(消滅)
吾々が病気に罹るならば、
肉体の活力は低下し、
仕事に疲れる迄の時間が短くなり、
普通人の標準点まで働くことができずに能率は低下するし、
常に心が病気の不快に半ばひきつけられているのであるから、
「 仕事 」 そのものに全精神を集中する事ができぬのである。
肉体は吾々が目的を達成する為に使う
一種の道具の様なものである。
芸術家は制作に要する道具を大切にするのであって、
制作に要する道具を大切にしないような者は
良い作品を得られぬのである。
体力を遊蕩に使う者には
「 人生 」 は傑作とはならぬ。
(抜粋として)
肉体は吾々が目的を達成する為に使う
一種の道具の様なものである。
芸術家は制作に要する道具を大切にするのであって、
制作に要する道具を大切にしないような者は
良い作品を得られぬのである。
・・・
(3)《失業は他(ほか)の地盤に魂の栄養を見出(みいだ)さんがため》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
失業を恐れてはならない。
神が今までの仕事を停止せしめ給うたのは
他にもっと重要な仕事があるからである。
失業の中に 神の導き と 祝福 とを感じて
感謝することができるならば、
あなたは間もなく新しき職業を発見する。
・・・
(4)《「祈る心」と「念仏申す心」》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
神は霊であるから、神は無限の救いの霊波を放送していられるけれども、
人間の霊的部分の、而(しか)も波長の合う部分にだけ感応するのであるから、
特に霊的に波長を合わした人だけが、神の霊波に感応して救いを受けることに
なるのである。
祈りや念仏は、それによって神仏が動かされて、特別 「 祈る人 」 や
「 念仏する人 」 だけに恩恵を与え給うというのではないのである。
・・・
(5)《みずからを「土の塵」として神から絶縁したる人間》
土の塵にてつくられたる肉体人間 ― アダムとイヴとが、
蛇の知識にて瞞(だま)され「 知識の樹(こ)の果(み) 」
を食して、知識が愈々(いよいよ)明らかとなり、
「 自分というものの本質が、物質分子の集合体に過ぎない 」
と科学的に究明せられたとき、
アダムとイヴとは、エデンの楽園 ( 神の祝福の満ちみちた世界 )
から追放されることになったのである。
「 追放される 」 とは、神の “ 祝福 ” 又は “ 神の護り ” から
断絶状態に置かれたという意味であって、
ある地域から地域に移送せられたという意味ではないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12641456.html (消滅)
・・・
(6)《道徳生活の黄金律》
動物性の台木の上に接ぎ木された“人間性”は如何なる特長を持つのであろうか。
単なる動物の本能以上のものを持っているに違いないのである。
私はそれを「五日のことば」の中で、
”道徳的目的”とまたは”愛他的目的”という名称で呼んだ。
此の事を岡潔先生は次のように言って居られる・・・・・。
「人の人たる所以んはどこにあるのか。
私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。
人がけものから人間になったというのは、
とりも直さず人の感情が判るようになったという事だが、
この、人の感情が判るというのがじつにむつかしい・・・・・」
この、人の感情が判って人の悦ぶことをしてあげたい、
自分の肉体的欲望を抑えてでも人を悦ばしてあげたい、
人を悲しませることや、人に不快な感じを与えることはしたくない
というのが道徳的感情であり愛他的感情である。
即ち、「自己が為られんと欲する如く他に施せ」
これが道徳生活の黄金律であるが、
それには”人の感情が判る”ようにならなければならないのである。
(7)” 内なる聲”にもこんな低級靈の聲がある
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
”内なる聲”にも心靈學上に分析して行けば、
決して内容が同一ではなく、いろいろあり、
”善霊の聲”もあれば”悪靈の聲”もあのである。
(中略)
本當の神は「人に内在する”靈的”なもの」であつて、
二重人格的に話しかけたり、問答できたりするのは、
ある階級の靈であるが、高級靈は少ないのである。
大抵は迷へる”浮浪の靈”が多いのであるから、
靈媒現象的にそのやうな靈に話しかけたり、問答するのは、
以上の如き危険を伴ふのであるから決して試みてはならないのである。
・・・
(8)”甘え”の心を棄てて全力を出し切ること
あなたが自分の仕事に全力を盡さないで、
易々加減で片付けて置くやうなことがあるならば、
それは”甘えの心”の表現である。
「他の人がこの位ならば我慢してくれるだらう」と甘えてゐるのである。
そんな事では、あなたは折角”神の子”として大力量人として
資格と能力とを與へられてゐるのに、その大力量人を發揮せずに
生涯を終つてしまふ事になるのである。
「私は神の子、大力量人」と
心の中で唱へながら仕事に懸命なさるがよい。
屹度立派にあなたは神から授けられた天分を發揮することが出來るでせう。
<感謝合掌 令和8年3月7日 頓首再拝>
【八日の法語(3月8日)】 - 伝統
2026/03/08 (Sun) 04:21:27
(1)《人間の職業は無限》
手繰りの紡織機械の後に機械力の紡織機械が出現した時、
多くの手繰りの手繰り娘や、機(はた)おり娘は
失業したかの如く見えたのである。
併し決してその失業は長く続くものではなかったのである。
人間の進歩は無限であり、
従って人間の職業の範囲も無限である。
何も人間はいつまでも手繰り紡織娘である必要はないし、
映画館の伴奏者でなければ生活出来ないと云うものではない。
今までの職業がふさがれて来る事は、
神が既に新たなる職域を準備していられる証拠である。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13118214.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《仕事の質と量とは 肉体の健康に左右せられる》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ef6eae2970b16d98b4b74b3632f26661(消滅)
一枚の板をけずるにしても、
もし道具がよく切れなかったならば、
まっすぐに凹凸なしに平らかに
その板をけずることはできない。
かくて仕事の質は低下する。
質のみならず、
切れない道具で板をけずるならば、
仕事に要するエネルギーが多く浪費せられ、
多く労しながら仕事の質と量とが低下してしまうのである。
世の中には吾々の道具である所の肉体が
錆びた大工道具のように、
いつも不健康で鈍(なまく)らであるがために、
善き仕事をしようと思いながらも
できないで斃れてしまう人が
随分沢山あるのである。
(抜粋として)
世の中には吾々の道具である所の肉体が
錆びた大工道具のように、
いつも不健康で鈍(なまく)らであるがために、
善き仕事をしようと思いながらも
できないで斃れてしまう人が
随分沢山あるのである。
・・・
(3)《職業を得るには心を明るくせよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
職業を得(え)んとする者は
まず明るい雰囲気をもたなければならない。
その人が ただいるだけでも、
周囲の人の能率をあげ得るような明るい雰囲気をもつ人は、
誰(たれ)でも その人を雇いたくなるのである。
・・・
(4)《人間は肉体の自力によって救われるのではない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
人間が救われるのは肉体の意識的努力によってではなく、
その人間に宿っていて、まだ眠っている
“神の子”なる“実相”に神が触れたまい、
その眠りを醒まさせ給うた時に始まるのである。
・・・
(5)《神との断絶関係にある人々》
神から、みずから絶縁し、神と断絶関係にある人間は、
この世界と、この自分(人体)とを、物質としてみとめるが故に、
それは有限であることは止むを得ない。
しかし、彼自身はその内性又は実相に於いては、
“ 神のいのち ”が宿って“ 彼自身 ”となっているのであるから、
無限に伸展したい自己拡張・自己発展の願いが
その抑えがたき意欲として内部から
湧きあがって来るのである。
しかも彼自身が物質としてみとめる地盤の上において、
無限に自己拡張したい願いをもつ多数の人間が、
地球上にひしめき合っているのであるから、
其処に衝突や、食い合いや、奪い合いや、戦いが
起って来るのは当然のことなのである。
「 神につくられたる世界に、
どうしてこのような争いが満ちているのだろうか 」の疑問は
そこから起って来るのである。
しかし、現象世界は、“ 蛇の知識 ”(「創世記」第二章)にあざむかれ、
この世界と人間と本質を“ 有限なる物質 ”と観ているのであるから、
“ 有限世界 ”に“ 無限の欲望 ”を実現し得ない悲しみが湧いて来て、
イエスの如く「 わが国はこの世の国に非ず 」と
嘆声を発せずにはいられなくなるのである。
「 知識の樹(こ)の果(み)」を食して、
こうして楽園から追放せられた人間が、
楽園に復帰するためには「 生命の樹の果 」即ち
“ 生命の実(じつ)の相(すがた)”を食して、
「 生命は神より来る 」という霊的自覚を
蘇生(よみがえ)らすほかはないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12656059.html(消滅)
・・・
(6)《人間の感情がわかるのでなければ》
「人類が人の感情がわかるようになるまでには、何千年どころでなく、
無限に近い年月を要したに違いないと思われるくらいにわかりにくい。
数え年で三つの終わりごろから感情という事がややわかるが、
それはもっぱら自分の感情で、他人の感情がかすかにわかりかけるのは
数え年で五つぐらいのことからのようだ。
・・・・・そのデリケートな感情がわからないうちは道義の根本は
教えられない」と岡潔先生は言われるのである。
近頃のテレビやラジオの座談会やドラマの主人公などに出て来る
若い人を見ていると、非常に個人主義で、親が子供を思う感情など
全くわからない子供が多いのである。
「自分で考える」「何ものにも影響されないで自分の信ずる通りにやるのが
民主主義の生活で、正しいのだ。親の考えなどに影響されるのは封建的だ」
というような学校教育を受けている子供が多いからだと思う。
つまり人の感情など思いやる必要はない、
大いに自己中心的にやれという教育が行なわれている結果である。
岡潔先生も、
「どうも今の教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。
そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴が如何にも
無慈悲なことにあると気付く。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだ
と思う」といっておられる。
・・・
(7)”内なる聲”の分析について
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
しかし單に「内なる聲」に聴けといふやうな場合、
その”内なる聲”といふ表現が曖昧であつて、
頭の中で二重人格的に喋る靈の聲であるか、
そのやうな聴覺的な聲ではなく、”良心の囁き”として、
内在の神性(又は佛性)の催しとして一種の直感的な”魂の叫び”
(カントが”實踐理性”と呼んだ如き、道徳的理性の囁き)であるのか
ハッキリしないのであるが、
實は、是はハッキリさせて置かなければ、
頭にバケツを被つて、その、靈の聲をアースしようと試みた人のやうな
重大な間違ひを引き起こす事にもなりかねないのである。
・・・
(8)”甘える心”を棄てること
病氣を口實にしてはならないし、
あなたの體に本當に病氣らしい症候を示してゐても、
それを人々に大袈裟に語つてはならない。
コトバで表現することが現實化するのであるから、
言葉であなたの病氣や不幸を大袈裟に表現すればするほど、
あなたの病氣は増悪して來るだらうし、
不幸は類を呼んで集つて來るであらう。
病氣の苦痛を人に訴へるのは、矢張り”甘える心”であり、
他から同情されたい心があるから、同情されねばならないやうな
不幸な状態を作り出すことになるのである。
總じて ”甘える心”は、
甘えても差し支へないやうな卑屈な状態をみづからつくりあげて、
甘え得る資格を作り出さうとすることになるのである。
<感謝合掌 令和8年3月8日 頓首再拝>
【九日の法語(3月9日)】 - 伝統
2026/03/09 (Mon) 05:07:33
(1)《神は新陳代謝の神である》
今までのものを掴むこと勿れ。
過去のものは
過去に意義があったのである。
神は停滞の神ではなく、
「 新陳代謝 」 の神である。
今迄のものに別れる事によって
新しいものを迎えることが出来るのである。
と云っても 今までのものを好い加減に胡麻化して置いて、
転々と職業を変われと云う意味ではない。
実(み)熟せば その樹は使命を終って枯れるのである。
今までの職業環境 ― それは自分の 「 魂の進歩 」 と云う結実を
齎(もたら)す為の樹であったのである。
既にその使命を終れば環境職業も変わる。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13121590.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《常に鋭く希望に燃えるには》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e5cea46adbcbc6da4fb29709d36e342c(消滅)
人間は 常に健康でなければならない。
希望は 常に鋭く燃えなければならない。
エネルギッシュでその希望実現のためには
どこどこまでも勇往邁進し得る意志力をもつものは
遂に 「 人生 」 を傑作たらしめるのである。
切れ味のよい刃物のように、
一旦志した事柄は必ず断じて行いて
一切の障礙物を切りはらう力がなければならない。
時に応じて機略縦横、明快なる判断を下して
「 時 」 と 「 人 」 とに応じた働きができなければならない。
かくの如き力は肉体全体が健康であり、
脳髄がつまらない毒素でみたされていては得られぬ。
心を常に平和にすると同時に、
不要に食慾や肉慾にまどわされて
体力を浪費してはならない。
(抜粋として)
人間は 常に健康でなければならない。
希望は 常に鋭く燃えなければならない。
エネルギッシュでその希望実現のためには
どこどこまでも勇往邁進し得る意志力をもつものは
遂に 「 人生 」 を傑作たらしめるのである。
・・・
(3)《明るさは最大の美徳である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
明るさは何よりも最大の美徳である。
・・・
(4)《神、汝の実相に触れ給う》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
諸君が 「 生長の家 」 を知ったのは、実は、諸君自身が知ったのではなく、
神が諸君の実相たる“神の子”に触れ、その眠りを醒まさせられたのである。
換言すれば 「 汝われを選びしにあらず、われ汝を選びしなり 」 と
神は 諸君に対して呼びかけていられるのである。
諸君はこの光栄に感激感謝しなければならないのである。
・・・
(5)《神の祝福を受ける唯一の道》
自分を物質的“ 肉体人間 ”だという唯物論的知識
(注。「知恵の樹の果」にあたる)を食して
エデンの楽園から追放された境涯にある人々は、
神の国から追放されているのであるから、
神の国の放送から切り離されてしまっていて、
神からの祝福や恵福(けいふく)の放送を
受信することはできないのである。
彼は「 物質の世界 」に放逐(ほうちく)せられたのであるから、
物質の法則に支配されるばかりであって、
神の愛の法則、恩寵(おんちょう)の法則に支配されることはできない。
即ち「 汝は苦しみて子を産まん」とエホバ神が宣告されたように
出産の苦しみを免れることはできない。
また「 汝は塵なれば塵に帰るべきなり 」と
エホバ神によって宣告されたように、
死は永遠からの“ 生命の断絶 ”そのものとなって、
「 永遠の生命 」を得ることはできないのである。
何よりも大切なのは、神の“ 祝福 ”の放送や、
神の恩寵の放送を受像し得るように、
“ 自分の心 ”という受信機を調整するよりほかに、
神の国の至福無限の状態を地上に実現することはできないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12660019.html (消滅)
・・・
(6)《人間の資格喪失》
ここで渋柿の台木に、甘柿の新芽を接ぎ木したという喩えに還ると、
“渋柿の心”にあたるのが、無慈悲で利己主義で、
自分に都合さえよければよいのであって、
人の感情のわからない、思いやりのない心に当る。
民主主義だとはき違えて主張している生き方は、この“渋柿の心”なのである。
だいたい唯物論的人間観を学校で教えられていると、
物質的存在としての面の人間、肉体存在としての人間、
そして肉体的欲望の遂行の合理化のみを教えられるから、
肉体の物質面は、他人が酒を飲んでも、自分が酔う訳ではなし、
人が快楽を遂行しても、自分が快楽を味わうことが出来る訳ではない、
つまり彼我断絶で、共同的な同悲同喜の面が無いから、
自然に利己的になり、個人的になる。
そして愈々個人的になることを“個人の目醒め”などと言って
尊敬すべき事の如く教育されるのだから、益々冷酷で残酷で愛のない
「思いやりのない」人間が養成される事になるのである。
これでは人間が人間である資格は「思いやりの感情」があることだと
岡潔先生のいわれる其の”人間の資格”の喪失した人間ばかりが
造られることになる。
諸君はそのような資格喪失の人間になってはならないのである。
・・・
(7)”守護霊の聲”と”良心の囁き”との差別 -
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
(ソクラテスや金光教祖や天理教祖)は
二重人格的にあらはれた”神”の聲を聞いてゐられるのである。
それは「良心の囁き」とか「神格の内流」とかいふやうな、
單なる”自己の魂の深層”から催して來た”内なる聲”ではない。
ソクラテスや金光教祖や天理教祖が、そのやうな”神霊の聲”を素直に信じ、
その通り実踐して、間違つた行動をせず、人類を善導する光となり得たのは、
たまたまこれらの聲の主が低級なる迷靈の出鱈目の饒舌ではなく、
高級靈が教祖を選んで、その肉體を使つて人類を救濟せんとする悲願を
達成しようとせられたものであつたに違ひない。
そのために、これら教祖やソクラテスは二重人格的にあらはれた
”霊の聲”に素直に從つても間違を犯すことなく却つて
人類の”光”となり得たものである。
・・・
(8)傳道のきびしさをイエスが示された範例
ヨハネ傳第二章第一節に次のやうなイエスの逸話が書かれてゐる。
「三日目にガラリアのカナに婚禮ありて、イエスの母そこに居り、
イエスも弟子たちと共に婚禮に招かれて給ふ。葡萄酒つきれば。
母はイエスに言ふ。「彼らに葡萄酒なし」
イエス言ひ給ふ
「をんなよ、我と汝となにの關係あらんや、
我が時は未だ來らず」・・・・・」
このブッキラボーに母に對して何故イエスは
『我と汝となにの關係あらんや』などと冷淡な言葉を發したのだらうか。
もつと愛情を含んだ語調で物が言へないものだらうか。
神は”愛”ではないか
―― と私は久しく疑問に思つてゐたのであるが、
これは「眞理の傳道者」が自分自身に對して”甘える心”を
切り棄てるきびしい訓練をしなければならないことを
イエスが實踐によつて示されてゐるのだとわかつた。
一燈園などではこれを”棄恩入無爲”と稱してゐる。
家族的な愛情は、それに甘えてをれば、眞理の傳道に出かける
機會を失つたり、縮小したりすることになるのである。
片手間で人類を救ひ得るなどといふ事は
『甘えた考へ方』に過ぎないのである。
イエスが『我が時は未だ來らず』といつてゐるのは、
「お母さん、あなたとパーソナルな家庭的な團欒の歓びを持つ時は、
私が十字架にかかつた時です。
それまではそんな悠長なことはできなのです」
といふ意味なのである。
そしてイエスは、十字架に釘けられた時、
ヨハネ傳第十九章によれば、
「イエスの十字架の傍らには、その母と姉妹と、
クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立つてゐた。
イエスはその母とその愛する弟子達が近くに立つてゐるのを見て、
母に『をんなよ、視よ、なんぢの子なり』と言ひ給ひ、
そして弟子達には『視よ、汝の母なり』と言ひ給ふた」
とあるのである。
「我が時は未だ來らず」と先に言つてゐられたところのその時が來て、
イエスは、はじめて肉親の母と子の愛情を示し給ふたのであつた。
傳道のみちはきびしいのである。
片手間でやれると思ふのは「甘える心」である。
<感謝合掌 令和8年3月9日 頓首再拝>
【十日の法語(3月10日)】 - 伝統
2026/03/10 (Tue) 04:53:41
(1)《自分を与えて、他から与えられる》
金を儲けたいと思って小説を書いても
其の小説は人の心を動かすことは出来ないであろう。
人を動かす文学的作品は
人を動かす文学的使命のみを深く感じた人のみによって
製作せられるのである。
人を動かす宗教的作品もまた然りである。
金を神に祈っても何にもならぬ。
神の世界には 「 金 」 などは存在しないのである。
よき生活とか、豊かなる生活とか、美しき生活とか、愛深き生活とか、
そう云うものは 実相の世界にもあるものだから祈れば与えられる。
しかし先ず 「 自分の全力 」 を
自分から与えねばならぬ。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13124555.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《肉体は生命力の貯水池》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ebd6d39a4ba597c90a3de1f23b6b5a38)(消滅)
吾々の肉体は
吾々の生命力の貯水池のようなものである。
吾々の生命力は
肉体の中に仮りに体力として貯えられて
各方面の用に使われるのである。
もしこの活力の貯水槽に漏れがあったならば、
常に吾らの活力は
最高度の水準に保たれることはできないのである。
もし貯蓄しておいた銀行が
破産してしまうと云うようなことがあるならば、
その貯金は使えないように、
吾々の肉体に預けてある所の活力が、
何らかの 「 漏(も)れ 」 によって、
何時(いつ)の間(ま)にかなくなってしまっていると云うことが
あってはならないのである。
(抜粋として)
吾々の肉体は
吾々の生命力の貯水池のようなものである。
吾々の生命力は
肉体の中に仮りに体力として貯えられて
各方面の用に使われるのである。
・・・
(3)《明るい心が幸福の根元である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
明るき心には 波長の共鳴の原理によって、
明るきもの、楽しきもの、愉快なるもの、
凡(およ)そ 見て楽しく喜ばしきもののみが集って来る。
神は 「 喜び 」 であり、
神の喜びが自分を通して表現されつつあるのである。
喜びを表現しないものは 自己に宿る神を窒息せしめつつあるものである。
・・・
(4)《肉体的自覚の外皮を脱ぎ棄てること》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
この「 肉体としての自分の自覚 」 を脱ぎ棄てる程度にしたがって、
内部にある「 神なる生命 」 が愈々(いよいよ)はっきりと展開して
益々 その実相の完全さを発揮するのである。
・・・
(5)《何故、この世界に不幸が存在するのだろう》
もし愛ふかき“神”というものがあり、“神”がこの世界をつくり、
“神”が人間その他の生物をおつくりになったのだったら、
どうして色々の生物は互いに殺し合い、食い合い、
人間もまた他の生物と同じく、常に争い、殺し合い、傷つけ合い、
病気に罹(かか)り、色々の悩み苦しみを嘗(な)め味わねばならぬ
のだろうか ー こういう疑問が、
常に“物質のみの世界”に生きている人から、
無神論を正しいとする側の證明として提出せられるのである。
しかし“霊の世界”に住み給う神にとっては
“物質の世界”にのみ住んでいる人間とは
断絶関係にあるのだから、
“神”は実在し給うてもどうすることも出来ないというのが
現在の“神”と“人間”との関係なのである。
その断絶関係を打破して、神と人間との関係を、父と子との関係に、
神は“親様”であり人間は“神の子”であり、
神は霊であり、人間も“神の子”であるから、
どちらも霊であるから、神と人間とは互いに霊交できるという
自覚に立ち帰ってこそはじめて、人間は神の祝福の霊波に波長が合い、
色々の楽しい恩寵をゆたかに受け得るようになれるのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12662814.html (消滅)
・・・
(6)《人類が肉食を止めなければ世界に平和は来らない》
ちかごろの人間が“思いやりのない”冷酷、残酷な個人主義的感情を持っていて
人間資格喪失の状態になっている原因の一つには、戦後の食物の変化が
重要な役割を演じてると思われるのである。
近頃の栄養学は、動物的蛋白質を良質の栄養素として宣伝し、料理法でも
テレビの宣伝で、動物蛋白、幾グラムという風に教えるのである。
動物の肉を摂取することは、
動物の精神を自分の内部に吸収することなのである。
肉というものはただの物質ではないのである。
それは『甘露の法雨』に”心の絲を組み合わせて肉体の繭をつくり”とあるように、
動物の肉は「動物の心の糸を組み合わせて」動物肉が出来ているのであるから、
動物の肉を食うという事は、”動物の心”を自己の肉に摂取吸収することである。
それだけ人間感情が動物感情に似て来るのである。
動物を殺して食しながら平和論を唱えて見ても、
それはただ偽善であり、滑稽なだけである。
・・・
(7)迷靈には問答打ち切り宣言が早いほどよい
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
迷靈との問答は、長くかかはり合つてゐると、
人間を翻弄して樂しみたいのが彼らの人間に話しかける動機であるから、
いつまでもその迷靈が粘り著いて間斷なく話しかける爲
人間の方がノイローゼになつてしまふ。
イエスと迷靈サタンとの問答は極めて簡潔にして、
イエスは「去れ」といつて、迷靈を突き放してゐるのである。
・・・
(8)西田天香先生の示された傳道の範例
私は傳道のきびしさを憶ふとき、いつでも一燈園の
創始者西田天香先生の聖なるきびしさを思ひ出すのである。
天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも
測り知ることが出來ないで近親者がその枕邊に集つてゐるとき、
天香先生は
「人類が私の救ひを求めて私を呼んでゐるのだ。
私はその方に赴かねばならぬ。
それがまた保太郎の菩提のためであるのだ。さやうなら」
といつて危篤の子どもを殘して人類救濟のために
旅立つて行かれるのであつた。
それは最近親者たる母に向つて
「われと汝と何の關係あらんや」と淡々と言ひ切つて、
「わが時は未だ來らず、また時が來たら會はうよ」と
十字架上で母と再會する約束をしたイエスの心境と
よく似てゐるのである。
義は重く、眞理傳道の使命は重く、
肉親の愛情はそれに比べれば輕いのである。
<感謝合掌 令和8年3月10日 頓首再拝>
【十一日の法語(3月11日)】 - 伝統
2026/03/11 (Wed) 04:23:41
(1)《より高き仕事に対する立場》
「 斯う云う仕事はつまらない 」 と
今従事している仕事に不満足な感じが起るのは、
自分の内部生命が、もっと高い仕事を求めており、
“ もっと ” 高い仕事に対する能力が
自分に“ ある ” 事を内部から告げているのである。
と云って今ある仕事を疎(おろそ)かにしては、
“ もっと ” 高い仕事は恐らくは出て来ないであろう。
高い仕事に対しては時としては
見窄(みすぼ)らしい足場が与えられる。
それに全力を尽すとき次なる足場が与えられる。
現在の仕事に全力を尽し乍(なが)ら、
その余裕で新しい仕事をやるのは好(よ)い。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13127396.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《一度失われた其の日の生命力は取り返されぬ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/43c6ce7d70d244e87e64f86abf60df4c(消滅)
「 私は忙しくて肉体の事など考えている暇がない 」 という人が
あるかも知れない。
然し 忙しければ忙しい程、
吾々はエネルギーを使うのであるから、
どこかにエネルギーの無駄な 「漏(も)れ 」 がないかと、よく検査して、
一寸(ちょっと)でもエネルギーの浪費される部分があったならば、
それを修繕するようにしなければならぬのは 当然の事なのである。
如何に立派な金鉱があるにしても、
その金鉱の金の純分を
その何パーセントしか使わないで
その残余を悉くすててしまうとしたならば
何と惜しい事であろうぞ。
肉体のエネルギーは
金鉱よりも貴いものである。
失われたその日の時間のエネルギーは
再び取り返す事は出来ないのである。
(抜粋として)
失われたその日の時間のエネルギーは
再び取り返す事は出来ないのである。
・・・
(3)《彼を神の御手に預けるよう祈れ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
神は決して誰一人をも見逃し給うことはないのである。
彼も亦神の救いの御手の中にあるのである。
・・・
(4)《神想観を繰り返して 「 自覚 」》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
神想観を実修する度毎に、
自己の生命は暦(こよみ)の年齢によって老衰せず、
如何なる外部的状態によっても破壊されざる金剛不壊の存在であることを
知るのである。
・・・
(5)《あなたの祈りがきかれない場合》
不幸は、神がつくったものではないのである。
それは神から引き離された( 換言すれば“神の子”たる自覚を失って
“エデンの楽園”から追放された )結果、恰(あたか)も、
本来、法的には大富豪の跡継ぎ息子で無限の富をもっていながら、
幼い時から家出をして、迷い児となり、放蕩息子となっていて、
自分が大富豪の跡継ぎ息子であるということを自覚できない状態で、
いろいろ艱難辛苦を重ねているようなものである。
“ 大富豪 ”は吾々人間の“ 親様 ”の譬(たと)えであり、
そんな場合、艱難辛苦を重ねている息子がいくら大声をあげて、
「お父さん、どうぞ私を救けて下さい」と叫んでも、
大富豪のお父さんには聞こえないのである。
この大声あげて「お父さん、救けて下さい」と叫ぶ事が、
恰度(ちょうど)、不幸や病気や災難で苦しんでいる人間が、
神に祈って救いを求めていることに当たるのである。
しかしその祈りは神に達しないのである。
何故であるかというと、彼は物質の法則の支配する物質の世界にいて、
神の霊波には波長の合わない、次元の異る世界に住んでいるからである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12666350.html (消滅)
・・・
(6)《松下幸之助氏の羽田騒動観》
誰からか「経済雑感」と題した松下幸之助氏講演会の速記録が送られて来た。
パラパラと頁をめくっていると“治安と物価”という小見出しのところに
次のような文句が目についた。
「・・・・・この前の羽田事件の問題でも、われわれの税金によって
作られた立派な自動車が八台も焼かれました。
これは皆さん、新聞でご存知だと思います。
誰もおらんところで焼かれるのであるならば、これは焼き得るのであります。
しかしあの前には千人の警官が警戒して焼けていく姿を
じっと見ていたわけですね。そういう状態において八台の国家財産が
消失してしまうという姿ですね・・・・・」
私はこれを読んで今迄尊敬していた松下幸之助氏に対する尊敬が
スーッと消えて行く感じがしたのである。
長者番付のトップにのし上がり、その会社はついに半期に百億円を
超える事業収益によって日本の実業家のトップに立った。
すると人からやんやとはやし立てられて、
日本で自分が一番偉い気になり、好い気になって説教をはじめる。
そしてあの羽田事件で警官が五百名以上も重軽傷を負いながら、中には
永久に不具廃疾になるような、脊髄骨を角材で殴られて重傷を負ってまでも、
全学連を制するために戦っているのである。
それなのに松下幸之助氏は、「あの前には千人の警官が警戒して
焼けていく姿をじっと見ていたわけですね」と、
警官は何もしないでじっと拱手傍観していたかの如き口調で、
警官の在り方が治安の維持に責任がある、その責任を果さないで、
ジッと見ていて国家の財産である自動車を八台も焼いたというような
攻撃口調の講演となっているのである。
これが今「日本の良識」の代表のように言われている松下さんの
発言なのであるから私は茫然としてしまうのである。
・・・
(7)”聲ある聲”の靈の導きに警戒せよ
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
人間に話しかける靈が必ずしも善靈ばかりに決まつてゐない。
第三者又は第二者の「聲ある聲」による”靈の聲”には
關り合はない方が危険が少ないのである。
・・・
(8)眞理の傳道は命懸けの使命である
「眞理の傳道」をイエスは「人の前にて我を言ひあらはす者」
といふ表現を用ひてゐられる。
「我は道なり真理なり、生命なり」とイエスは言つてゐられるので、
「我を言いあらはす者」とは眞理を言いあらはす者
―― 即ち内在のキリスト ―― 佛教的にいへば
”内在の佛性” ―― を傳道する者の事である。
イエスは次の如く言ひ給ふ。
「暗黒(くらき)にて我が告ぐることを光明(あかるき)にて言へ。
耳をあてて聴くことを屋(やね)の上にて宣べよ・・・・・
凡そ人の前にて我をいいあらはす者を、
我も又天にいます我が父の前にて言ひ顯さん。
されど人の前にて我を否(いな)む者を、
我もまた天にいます我が父の前にて否まん。
われ地に平和を投ぜんが爲に來れりと思ふな。
平和にあらず、反つて劍を投ぜんが爲に來れり。
それ我が來れるは人をその父より、娘をその母より、
嫁をその姑より分たん爲なり。
人の仇は、その家の者なるべし。
我よりも父または母を愛する者は我に相應(ふさは)しからず、
我よりも息子又は娘を愛する者はこれを失ひ、
我がために生命を失う者は、これを得べし。」
(マタイ傳第十章第二七節三九節)
どんなに眞理の傳道がイエスに於いてはきびしものであつたか、
それは現象の生命よりも尚、尊いいのちがある。
その實相のいのちを傳道するためには汝の父を、汝の母を、
汝の息子を汝の娘を”執着の愛”から引き離たなければならない。
「人の仇は、その家の者なるべし」とイエスは宣言してゐるのである。
三島由紀夫氏はある意味に於いて、眞理のために、
自己をその家族より引き離し、更に現象の生命や、
文學的天分からさへも引き放し
みづから進んで十字架の道を選んだのであつた。
<感謝合掌 令和8年3月11日 頓首再拝>
【十二日の法語(3月12日)】 - 伝統
2026/03/12 (Thu) 04:07:38
(1)《祈りは不断の生活にある》
祈りというものは、必ずしも或る一定時間
大声又は黙念で神に懇請する事ではない。
常に魂の奥底で念じている事、常に言葉で話し合ったり、
呟いたりしている事も 「 祈り 」 であるから、
神想観の時間にのみ、 「 自分は既に健康である 」 と念じても、
その他の時間に於いて、自分の苦痛を他に訴えたり、
出来るだけ同情して貰おうと思って、病苦を誇張して
語ったりする様では駄目である。
病気や不幸や悩みは 常時、出来るだけ言葉に出さず、
心に認めず、思わず、光明のみを念ぜよ。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13140836.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《金儲けに狂奔(きょうほん)して生命を縮めるな》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a57e6da6e05bc0cc5356a5baad19975c(消滅)
吾々は大自然から「生命力」というすばらしい金鉱を頂いているのである。
その金の純分は至極(しごく)豊富である。
然しそれを完全に分析し出して採取し利用することができなければ、
折角(せっかく)頂いた生命力の金鉱も
無駄にすてることだといわなければならないのである。
こういうことを称して自然の法則を破るというのである。
吾々の生命力の尊さは、
到底(とうてい)金銭を以て償うことはできないのである。
金もうけに狂奔して健康を犠牲にし、
肉体を完全に健康に守る所の法則を破って省みないという人が多いのは
まことに残念なことである。
(抜粋として)
吾々の生命力の尊さは、
到底(とうてい)金銭を以て償うことはできないのである。
金もうけに狂奔して健康を犠牲にし、
肉体を完全に健康に守る所の法則を破って省みないという人が多いのは
まことに残念なことである。
・・・
(3)《神は一羽の雀(すずめ)も見戍(まも)りたまう》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
愛する者が失敗しようとしているのを嘆くことは いらぬのである。
その人は失敗するようにみえていても 神が導いて訓練していられるのである。
神は決して その人から目を放ち給うことはないのである。
あなたの智慧の導きよりも 神の導きは もっと正しく彼を導くのである。
神に祈れ。 「 彼をあなたの完全なる智慧によって導き給え 」 と。
・・・
(4)《覆土(ふくど)を排除することによって新芽は伸びる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
実相を観じていさえすれば、安保条約や軍備がなくてもよいではないか、
憲法改正などしないでもよいではないか。ソ連からでも****からでも、
日本へ来たい者は自由に入国させてやればよいではないか ー などという議論は、
「 実相の芽 」が顕われるために「覆土(ふくど)」を排除しないでもよい
ではないかという議論に似ていて、実相の完全さと現象処理の問題とを
混同した議論である。
・・・
(5)《祈っても通じない場合と、祈らなくても既に備わる場合》
神に波長を合わして、自分の祈りを神に通じようと欲するならば、
“物質”の次元の世界から、自分の“存在の自覚”を去って、
“霊的次元の世界”に超入し、神と同じ次元の人となる時、
換言すれば、自分は“神の子“であり、
神の有(も)ち給える一切の御徳を継承する権利を
そのまま既にもっているのであるという自覚を得たとき、
もう神に向って叫ばなくても、要求しなくても、
そのまま彼は“神の子”であり、
既にあらゆる善(よ)きものが“自分のもの”となるのである。
生長の家で、人間は“神の子”であり、
祈っても、祈らくても、そのまま救われているのだと
説くのは、そういう意味においてであるのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12669621.html(消滅)
・・・
(6)《全学連騒動の原因について》
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7703461
・・・
(7)役職に從つて特命の守護神が與へられる
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
人には生れた時から生涯その人を指導守護するために任命された
正守護神のほかに、その人の役職が重大な仕事である場合は、
その役職について經験の深い高級靈が
その職務遂行の守護の靈として命ぜられて付き添ふて來るものである。
それを生誕と同時に來つた正守護神と區別するために
假に副守護神といふことがある。
・・・
(8)悅びの生活への新生
あなたは”神の子”であるから、
その毎日を”神の子”の自覺をもつて迎へなければならない。
”十字架を負ふ”とは悲しむことではないのである。
十字架はX(クロス・抹殺)と同時に
+(プラス・復活)であるのである。
それは過去の抹殺であり、唯物論の抹殺であり、
”神の子”靈的生命の復活であり、悅びの生活への新生である。
生きる歡喜と情熱を持つて生活しなければならない。
本當は、自分自身を肉體といふ物質的塊に過ぎないと
思つてゐた限りにおいては
あなたは本當の生き甲斐は感じられないで、
ただその時その場の感覺の刺戟によつて快感を感ずるといふ
物理化學的な反應みたいな生活をしてゐたのである。
何故なら物質には希望も理想も使命感もなくただ
”不可不の法則”(斯くなるより仕方がない法則)に
機械的に支配されてゐたにすぎなかつたのである。
今より後、あなたは”神の子”の自覺を得たのであるから、
靈的法悅の聖歡喜が充滿する生活を營むことが出來るのである。
それゆゑにあなたは今朝から必ず毎朝起床と同時に
「私は神の子、これから神の子の悅びの日が始まるのである。
私は喜びを持つて生き甲斐ある一日の仕事に臨む。
私は健康に恵まれ、良き家庭に恵まれ、深切な友人や同僚に恵まれ、
私の仕事は樂しいのであり、現在の繁榮と將來の無限の發展とが
約束されてゐるのである」
といふ風に念じてから、その出發をなさるがよい。
言葉は種子(たね)であり、よき言葉で想念することは、
その善き言葉の内容を發芽させ、生長させ、開花させ、
結實させることになるのである。
<感謝合掌 令和8年3月12日 頓首再拝>
【十三日の法語(3月13日)】 - 伝統
2026/03/13 (Fri) 05:05:53
(1)《朝の祈りは斯くせよ》
朝起きた時、眠いのに面倒だとか寒いのに辛いとか思うな。
すぐ思いを神に転ぜよ。そして
「 神よ、わが眠りのうちにも呼吸せしめ給い、
血液を循環せしめ給い、消化と栄養と休養とを与え給いて、
新しき今日の生活に準備せしめ給いし事を感謝します。
是は皆神の創り給いし霊的法則によって行われたのでございます。
夜中 安全に守られ 祝福せられました如く、
今日も亦 安全に吾等を祝福し給いて
家業(又は営業)にいそしましめ給え。
神様 あなたの守りに感謝致します。」 と 祈れ。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13143699.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《始めから疲れているような人間になるな》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/336669be970d5b34e8d0e58cf8adf110(消滅)
吾々の健康力は
非科学的な出鱈目(でたらめ)な生活や、
悪習慣や、放蕩三昧の行いや、
その他 面白からぬ精神感動等によって
低下せしめられるのである。
会社員は、出勤して事務所に到達した時に、
すでに疲労したような顔をしているのである。
もう既に生き生きとした体力は衰耗(すいもう)し、
快活な精神力は失われ、
緻密(ちみつ)な計算や、計画や、
判断を行うには不適当な状態になっているのである。
もう仕事の始めからくたびれているので、
仕事をするのに活力も、熱情もないのである。
そんなことで良い仕事の出来ようがないのである。
(抜粋として)
吾々の健康力は
非科学的な出鱈目(でたらめ)な生活や、
悪習慣や、放蕩三昧の行いや、
その他 面白からぬ精神感動等によって
低下せしめられるのである。
会社員は、出勤して事務所に到達した時に、
すでに疲労したような顔をしているのである。
そんなことで良い仕事の出来ようがないのである。
・・・
(3)《目が覚めると先(ま)ず神を思い起せ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
毎朝 目が覚めたら まず神を思いおこすべきである。
然(しか)らば 神も亦 あなたを思い起し給(たま)うであろう。
・・・
(4)《何故、現象界の処置が必要であるか》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
神は無敵であるということは、
何もしないで外敵に身をさらすということではない。
時と処と相手に応じて、神が適当な処置をとらせ給うて、
自然的過程を通じて敵と見えたものが害をしなくなるということである。
・・・
(5)《神は頼まなくとも常に恵みを与え給う》
だいたい、神に祈るという形で、
泣訴(きゅうそ)嘆願(たんがん)してみて、
それによって神の心が動かされて、
神が何とかしてくれるだろうなどという考えを
今までもっていたのが間違いだったのである。
神は頼まなければ、その愛のはたらきを営まない
というような怠け者でも、
感情の動きの鈍い鈍重(どんじゅう)な存在でもないのである。
金光教祖がいみじくも喝破(かっぱ)したように、
神は「 頼まないでもお陰はやってある 」と仰せられているのである。
使徒パウロは、真理の伝道を妨げるためにイエスを迫害した ー
換言すれば「光をくらました自分の心」の反影として「
光を見ない盲人」となったのだが、
その後、転心して「光を見る心」になったとき、
片眼が見えるようになったのである。
もう一方の眼は時々ぼんやりと見えたり、見えなかったりするのだった。
それでパウロは、その見えない片眼の方も
癒して貰いたいと思ってキリストに祈ったとき、
キリストは天空から「わが恵み汝に足れり」と答えた
と伝えられているのである。
神は私たちに向って「神は、お前たちが頼まなくても、お陰は既にやってある。
わが恵み汝に足れりなのだ」と仰せられているのである。
神を放送局にたとえてみれば、頼んでも頼まないでも、
視聴料を支払っても、支払わないでも、
平等に全人類にお陰(放送番組)を与えておられるのである。
しかもそれは充分に既に与えておられるのであるから、
「わが恵み汝に足れり」なのである。
しかもその恵みが完全に自分の身辺や境遇や健康にあらわれないのは、
自分の心を波長のちがう処に向けているからなのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12669692.html(消滅)
・・・
(6)《何が青年を左翼運動に駆り立てるか》
大分以前のことであるが、当時全学連の執行委員長をしていた一人の東大生の青年に、
どうしてそのような全学連運動に挺身するようになったか尋ねて見たら
次のような回答を得たと
国民文化研究会(編集委員代表・小田村寅次郎氏)編集の
『国民同胞感の探求』なる本の13頁に記載されているのである。
「高校生(新制)のころから私には
今の日本がずいぶん矛盾だらけに見えて来た。
政治家や実業家たちの腐れ縁も新聞をにぎわしていた。
上層部の人達の邪悪が、自分の心を捉えて離さなかった。
やがて私はなんとかして世の中を改善する方法はないかと考えるようになった。
書物を読みたくなったし、正義感から来る世の中を改善する方法はないものか
と考えるようになった。
その時たまたま、ほんとうに偶然であるが、
手にするようになったのがマルキシズムの本であった。
そしてそれを教え導いてくれる年長者と接する機会が与えられた。
それからといいうものは、ただひたむきに心を弾ませながらそれを学んで来た。
しかし、もしも私が高校生の時に、マルキシズムでない別のものに触れ、
それを教え導いてくれる人たちに接していたとしたならは、
その方向にまっすぐに進んでいたかも知れない。
今から考えて見ても、その時はそれほど社会悪に憎悪と憤りを感じ、
世の中をよくする方法を求める気持ちで一杯であった。」
この言葉の中には社会正義を求める純情な青年の精神が満ち漲っているのであって、
一方に於いて毎月幾百万円ところがり込む松下幸之助氏のような大富豪と、
その日の衣食住にも事足りない貧民階級の人々とが、非常な懸隔をもって
青年の目の前に立ちふさがっている事も、青年が赤化したり、
全学連の人たちが社会革命運動を起こす根因があることを知らねばならない。
松下氏はこのようなことを反省してみた上で、治安の問題など、単に
政治家や警察官の不手際だと第三者の出来事の如く批評が出来るであろうか。
全学連下運動のような危険な運動を阻止するには、もっと視野を広くして
多くの階層の人達が真剣に協力する必要があるのである。
・・・
(7)副守護神と司配靈とについて
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
普通、副守護神と稱する場合には、誕生の時以來、
生涯を通じて守護して下さる高級靈なる正守護神以外に、
後からその人に扈從又は憑依してゐる守護霊のあらゆる種類を
ひつくるめて稱する場合が多いのである。
・・・
(8)心と行動に太陽をもて
あなたは一分一秒といへえども暗い想念や陰鬱な感情で
自分の心を滿たしてはならないのである。
常に積極的に、前進的に、物を考へ、明るい心をもつて、
常に今よりも一層善き状態が顕れて來ることを信じて、
勇氣を以て仕事に取り掛かるのがよいのである。
あなたは自分の”生命エネルギー”を情熱をもつて獻げなければならない。
豐かに獻げることをもつて歡びとせよ。
豐かに獻げるとき、
報い求めずして却つて一層大いなる報いが返つて來るのである。
<感謝合掌 令和8年3月13日 頓首再拝>
【十四日の法語(3月14日)】 - 伝統
2026/03/14 (Sat) 04:00:09
(1)《顔を洗う時の祈り》
顔を洗う時にも、神に感謝せよ。
和解するとは感謝することである。
先ず神に和解しなければならない。
洗面の水を汲んでは、
「 神よ、あなたの創造(つく)り給いし水に感謝致します。
わが顔を洗う事は
過去に過ちて人を憤り 憎み 恨みたりし 不快な思いを
悉(ことごと)く洗い流して、
新しく悦びに満ちた生活を始める象徴として感謝します。
水は 神の愛の現(あらわ)れであります。
この愛に浴せしめたまいて わが生活を浄め給え。
この水によって わが皮膚が美しく清らかに保たれます事を感謝致します。」
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13146472.html?type=folderlist(消滅)
・・・
(2)《奉仕する心で働かない者は多くの報いは期待できぬ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/17cc10be369b926cf12f5351b88e4602(消滅)
人に奉仕する希望も有(も)たず賃金の為に
「与えられた仕事」を遂行するような人間は奴隷である。
奴隷はいやいや仕事をするからくたびれる。
疲れているから一つの事物に精神を集中する事ができない。
あちらを向きこちらを向き、
嘆息し欠伸(あくび)をし、
煙草に火をつけて一ぷくするのである。
そして人生何の為に
こんな働きをしなければならないかと考える。
そして薄給を不幸に思うのである。
「 与えれば与えられる 」 が心の法則であるから、
人に奉仕する心なくして出し惜しんだ働きで、
多くを与えられることはあり得ないのである。
(抜粋として)
「 与えれば与えられる 」 が心の法則であるから、
人に奉仕する心なくして出し惜しんだ働きで、
多くを与えられることはあり得ないのである。
・・・
(3)《他(ほか)から妨げられるのも神の導きである》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
(抜粋として)
神の智慧に頼るものは、
自分の動きが たとい他から妨げられることがあっても、
それに対して不平をおこす事はないのである。
自分にとって適当でないものが自(おのず)から妨げられて行く所に
本当の神の導きがあるのである。
・・・
(4)《実相の顕現としての幸福生活》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
(抜粋として)
本当に永遠にくだけない不滅の幸福生活というものは、
それは自己の生命の深層に横たわる普遍なる神(実相)から
汲みだされて来てあらわれて来るものなのである。
・・・
(5)《祈りがきかれる場合の機構について》
神が鈍重で動いてくれないのを、叩き起すために、
私たちは祈るのではないのである。
神は冷酷で、私たちが憐れみを乞わなければ救けてくれないからとて、
神の憐れみを乞うために祈るのではないのである。
“人間”自身の心境が、物質界の方向へばかり意欲が向(むか)いていて、
心のアンテナが、神の「恵み番組」の放送局の方へ向(む)いていないのを、
匡(ただ)すために、“自分の心”(これがアンテナに当たる)の向き方を
変えるために祈るのである。
そして神に対して一心に祈っているとき自然に自分の“心のアンテナ”が
“神の放送局”の方へ向くことになり、既にあり、またこれからも常にある
ところの“神の恵み”の放送を受像し、それが眼に見える形で、
自分の健康状態や境遇や運命にあらわれて来ることになるのである。
その時、
人間は、「祈りがきかれた」「祈ったものが与えられた」と思うのである。
本当は、祈らなくとも与えられていたものが、
祈りによって人間自身の心の波長が、
既に与えられていた恵みを受像し得るようになったのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12673972.html(消滅)
・・・
(6)《資本主義社会の欠陥について》
無論、どんな経済組織の中にあっても、微賤貧困より立ち上がって
大富豪になる人も、位人臣をきわめる人達もある。
現に松下幸之助氏の如きは、その最たるものであって、
小学校教育さえ碌々受け得られない境遇の中に育ちながら
今日の大を成し得た立志伝中の人である。
私は資本主義経済組織の下積みとなって社会を詛い、国家を呪っている
人たちを反省させたり激励するために、ヘンリー・フォードが一介の
機械職工であったのが自動車王になり得たり、高橋是清(嘗ての大蔵大臣)氏
がアメリカで皿洗いをしていた貧しい青年であったことや吉川英治氏が
船の錆落としの製罐工であったり、山岡荘八氏が親の貧困を救けるために
新聞配達の少年として苦労の末、今日の大を為した事等の実例を挙げて、
資本主義社会は、共産主義や、社会主義社会よりも、立身出世の機会が
多い事実を挙げて、呪詛することの代わりに、心を一転せよと、
慰撫と激励の資料とすることはある。
けれども資本主義社会には根本的欠陥があるのである。
それは優勝劣敗の世界であるという事である。
本当に愛深い人は「劣敗」のある世界を調和ある世界だと
見ることは出来ないのである。
爰(ここ)に、「資本主義世界に於いても立身出世の実例はある」と、
いくら前記の如き人々の名を挙げて見ても、劣敗者なき調和ある世界を
希望する青年には世界革命の希望を捨てることが出来ない理由があるのである。
・・・
(7)絶對の神は、相對の人格神となつて自己完成する
(全文は)
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351
(抜粋として)
”神”が救済を完うし得る本當の神となり得るためには、
絶對者が相對的人格神としてあらはれて
救濟の御業を現實になさなければならない。
即ち法身の阿彌陀佛が、
報身又は應身の佛如來として顕現しなければならないし、
「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして
顕現しなければならないし、
天之御中主神が住吉の大神として顕現しなければならないし、
宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。
神が神たる慈悲の本來をあらはし、神たる使命を完了するためには
色々の宗教に於て”教祖神”として”神”はあらはれなければならないのである。
神の具體的な人格的慈悲の完成は
應身の教祖となつて顕はれることによつて完成する。
・・・
(8)あなたの肉體を完全健康に復するには
あなたが神想觀を實修して、自己の心を調律し、
神なる本源に波長を合はせる時、神の無限の智慧が
豐かにあなたに流れ入つて來ることになるのである。
私たちの體は決して單なる”物質身”ではないのである。
それは神の智慧によつて支配されて出現した
”アイディア”の體である。
神の智慧が完全にあなたの體を支配してゐるとき、
あなたの體は最高の健康さを發揮するのである。
もしあなたの體から神の生命が脱出し、
神の智慧の支配がなくなるとき、直ちにその肉體は
原形をとどめることができず、崩壊はじめるのである。
もしあなたの體に病弱の徴候があらはれるならば、
神の智慧の支配の他に、人間の雑念が混入して肉體を支配はじめて、
ただ”一つ”の最高の叡智に支配される%が減じ始めた徴候であるから、
神想觀を充分實修して自己の想念感情を神の波長に同調し得るやうに
調律するがよいのである。
完全に調律せられれば、完全な健康が囘復するのである。
<感謝合掌 令和8年3月14日 頓首再拝>