伝統板・第二

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(四月)の法語 - 伝統

2026/04/01 (Wed) 04:30:41

このスレッドでは、他の掲示板等から、次の7つの法語を紹介してまいります。


(1)『 生長の家 』 昭和二十五年四月号法語  ( 六日の法語 ~ 三十日の法語 )

   *Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html (消滅)

(2)『 生長の家 』 昭和二十六年四月号法語 ( 一日~九日 、 十九日~三十日の法語 )

   *Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html (消滅)

(3)『 生長の家 』誌 昭和四十九年四月号の箴言 ( 一日~九日の法語)

   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

(4)『白鳩』 昭和四十年四月号『女性のための智慧』(一日~十六日の法語)

   *Web《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》からの転載です。
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

(5)『理想世界』昭和四十三年四月の法語  
    
   *伝統板・第二「輪読のための青年法語  国内に滲潤しつつある革命思想」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

(6)『 生長の家 』 昭和四十八年四月の法語 

   *伝統板・第二「入龍宮不可思議境涯綴」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

(7)『 白鳩 』 昭和四十八年四月の法語

   *伝統板・第二「白鳩箴言~生命の尊重と佛性の囘復」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375


なお、それぞれの法語は、上記のように限定したものがありますので、
一部については、間を、別の真理の言葉を紹介してまいります。


・・・


【一日の法語・言葉(4月1日)】

(1)《民主主義の根本信念》~『生長の家』(昭和21年4月号 巻頭言)

   宗教と云うものは、自己と云う存在を「肉体」であるとの自覚から、
   「霊的実在」であるとの自覚に転回せしめるものであり、

   自己が「霊的実在」であるが故に、「霊的本源者」即ち神とのつながりを可能ならしめ、
   人を通じて神を此の世に実現せしめるものなのである。

   人に内在する神なしには民主主義と云うことはあり得ないのである。
   民主主義は、人間の本質の尊厳の平等を要求するのである。

   人間の本質の尊厳とは何によって可能であるか。
   それは猿やアミーバから、人間にまで進化したのであって、
   人間の本質は「アミーバ」なるもの、「猿」なるものが宿っているからだ
   と云うのでは説明にはならないのである。


   唯一の尊厳者は神のみである。凡そ人間に「尊厳」と云うものがあり、
   「民主」だとか「人主」だとか云い得るものがあるならば、先ず人間に神が宿っている
   と云うことを肯定してかからねばならないのである。

   色々に才能がわかれ、個性の差別があっても、
   人間の本質に神が宿っていることに於いては平等である。

   この平等の神的本質を指して吾々は『生命の實相』と称ぶのである。
   そして本質のみ真実であり、実在であるが故に、人間は『神である』ほか
   何物でもあり得ないのである。


   どんな悪人も、それは外見かく見えるにすぎないのであって、
   みんな彼らも『神である』ほかあり得ないのである。

   此の真実がわかるならば、すべての人間は互にその特長や欠点があらわれているままで、
   彼らを、その本質が、『神である』ゆえに礼拝し得るのである。


   私の考えでは民主主義を教育するためには、人間の生命の實相が『神である』ことを知らしめ、
   互に礼し敬し拝み合えるように、其の根本信念を確立せしめなければならぬ。

   これをなくしてただ自己の待遇改善を要求し、
   相手を非難し悪口する自由のみを獲得するのを民主主義と考えるならば、
   大変な間違いであると思う。

   http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22512134.html (消滅)

・・・

(2)《自己を幸福にするには》

   あなたの言葉、行い、想念、ことごとく
   神の国に 相応(ふさ)わしきものでなければならない。

   神の国には 讃嘆の言葉のみ充(み)ち満ちているのであって、
   決して憎みや、怨みや、呪いや、他(ひと)の悪を探す言葉には
   充ちてはいないのである。

   自分を最も害する言葉は、人を害する言葉であり、
   自分を最も害する想念、行動は、人を害する想念行動である。

   この真理が直ちに全人類にわかったとき全世界に平和が来るのである。
   自分を最もよくする想念感情は 「 愛 」 である。

   人のため人のためにと 愛念を起していると、
   愛念は 愛念を招(よ)びむかえ、
   自分自身が幸福になって来るのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html(消滅)

・・・

(3)《善(よ)き言(ことば)の創化力を祈りに利用せよ》

   “ ことば ”は アイディアを乗せた生命の波動であり、
   アイディアに描かれたる事物を 生命エネルギーを組み立てて
   創造する本質であり、材料であり、力である。

   それゆえに 何を“ ことば ”で唱えるか、
   何を“ ことば ”で念ずるかによって、
   その人の運命が支配され、

   善きアイディアを内容とする“ ことば ”を毎日念ずることにすれば、
   家庭は調和し、事業は繁栄し、家庭及び自分の健康は増進するのである。

   最近(昭和四十九年当時)発行された『 ジュニア希望の祈り 』というのは
   小中学生の年齢の児童たちが、“ 善き言葉 ”で毎日念ずることによって、
   健康で、善良な性格の、成績優良な子供になるための
   “ 祈り ”につかう、簡単な“ことば”を集めたものであるから

   子供をお持ちの方は、是非一冊をひとりひとりの子供のポケットに入れてあげて
   必要に応じて、どの言葉で祈るがよいかを辞書をひくように検索し得るよう
   小見出しをつけて工夫されたものである。

   大人の人たちの祈りのためには『 私はこうして祈る 』という本があるから、
   それによって検索して適当なコトバでお祈りになるとよいと思う。

   しかし本号には読者がすぐに利用できる短い“ 祈りの言葉 ”を書いて
   皆さまに差し上げることにした。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『天地一切のものに感謝して』

   今日いちにちの開始を先ず感謝することから始めようではありませんか。

   先ず神に感謝し、祖先に感謝し、父母に感謝し、良人に感謝し、
   子供に感謝し、家庭にはたらく全ての人々に感謝し、
   勤め先のすべての人々に感謝し、

   住む家に感謝し、一切の身の廻りの品々に感謝し、
   これら一切のものの根源となった神の御恩、衆生の御恩に
   感謝することから今日一日を始めようではありませんか?

    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)【”痴”が一切の不幸の根源である】

   釈尊は、人間にとってもっとも慎むべき悪徳として
   貪(とん)・瞋(じん)・痴の三つを数えて“三毒”と称せられたのである。

   その中で痴が最も根源的な”悪”の培養素であると私は思う。

   痴とは「知る」力が病にかかって充分に働かないことを
   あらわした象形文字である。

   明朗な「知」を失っている者は、
   現象の混乱を見て、それに心が巻き込まれてしまって、
   自分では正義のために大いに奮起しているつもりで、
   実は、日本侵略の赤い魔手の手先になっていることがあるのである。

   私たちは毎日神想観を実修して、神の叡智を感受して事物を判断するのに
   精確を期し、更に先見の命を持ち、そのままでは将来に起こるであろう
   人類又は国民の不幸を、未然に防ぐ手を打っておかなければならないのである。

   それが政治の要諦というものである。

     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【すぺての宗教はその眞髄に徹するとき】 

   最近、日本教文社から、
   宗教的救ひについての深い眞理の書が二種?出たのである。
 
   それは谷口清超氏の『念佛信仰の神髄』といふ本と、

   私の『生命の實相』の中から“罪業もとより形なし、
   それは妄想の描く影“といふ眞理に關する部分を類によつて
   抜粋、整理整頓したところの
   類纂・生命の實相『人類無罪宣言』といふ本とである。

   清超氏の『念佛信仰の神髄』の本は發行後、間もなく
   江湖の注目を浴びて重版をかさねてゐるといふことである。

   この書は一遍上人の語録を解釈したもので、一遍上人の、
   「吾が體を捨て南無阿彌陀佛と獨一なるを一心不亂といふなり。
    されば念々稱名は念佛を申すなり・・・・・」
   の語録の一節の解釋から始まつてゐる。

   この「念々稱名は念佛が念佛を申すなり」といふ語の意味を本當に知るには、
   自分自身が一遍上人の心境に到達した人でないと
   本當にわかるものではないのである。
 
   清超氏の解説はよく念佛信仰の神髄を捉へて、
   それを最も端的に表現してゐるのである。

   “念佛信仰の神髄”と假りに謳つてあるけれども、これこそが、
   すべての宗教信仰の神髄であり、あらゆる宗教をそこまで深く神髄に
   穿ち入る時、すべての宗教は一つの神髄的眞理に到達し
   萬教歸一が成就することになるのである。

   その萬教歸一的眞理を説いて一宗一派に偏らない信仰が
   “生長の家”なのである。

    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)”神”は決して單なる個人の空想による觀念的存在ではない

   ユングの心理學の本が近く日本教文社から
   『ユング心理學』と題して新しく出るさうだが、ユングの心理學は、
   生長の家の教義を理解する上に非常に參考になるものなのである。

   マルキシストその他の唯物論者は、”神”の客觀的存在を否定して、
   ”神”とは、人間自身が勝手に發明した空想的存在又は觀念的存在である
   と説くのであるが、ユングはそれを次のやうに説明するのである。--

   「心理的な出來事は、我儘勝手な憶測からうまれた恣意的な産物であるとか、
    更に進んでは、それらはそれらの生みの親である人間が發明したものであるとか
    いふ考へ方に餘りにも馴染んでしまつてゐるわれわれは、

    心理やそのもろもろの内容は吾々自身が勝手に發明したもの、ないしは、
    色々な推測や判斷にもとづいて多かれ少なかれ空想的にでつち上げられたものに
    他ならないといふ先入觀念からなかなか脱却することが出來ないのです。

    ところが事實はどうであるかといへば、
    ある種の觀念は、伝播や傳承とは全然關係なしに、殆どいたる所で、
    しかもあらゆる時代に現はれて來ますし、場合によつては
    自然に發生してくることすらあり得るのです。

    これ等の觀念は個人によつてつくられるのではなく、
    個人の方がこれらの觀念に遭遇するのである。

    いやそれどころか、これらの觀念は無理やりに個人の意識の中に
    侵入して來るのだのだと言つた方がよいかも知れません」と

   彼は強く言い切つてゐるのである。

   ”神”なる 觀念も、そんな觀念が、たつた一人の個人の心理の中に
   表れてゐるだけだつたら、それは單なる心理的主觀的なものだけれども、

   「このやうな觀念が、ほとんど到る處で、あらゆる時代に、
    一定數以上の共有になつた場合にはそれは客觀的なものである」と

   ユングは説くのである。

    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

・・・

<参考:4月の谷口雅春先生の言葉>

(1)若葉寄り繁る~「生命の實相」第37巻幸福篇上
   → (光明掲示板・第二) 
     http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1436(消滅)

    伝統第二「(四月)若葉寄り繁る(光明掲示板・第二) 」
     → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7841017

(2)信仰の本質~光明法語<道の巻>
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=81

(3)相倚(あいよ)よりたすける~光明道中記
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=82

            <感謝合掌 令和8年4月1日 頓首再拝>

【二日の法語・言葉(4月2日)】 - 伝統

2026/04/02 (Thu) 04:59:32


(1)《時節ということ》~『生長の家』(昭和23年4月号)

   『時が解決する』と云う言葉がある。
   時節というのは、神の心の世界に描かれたところの秩序であり、順序である。
   事物の発展して行く順序というものは砕くことは出来ないものである。

   種子を蒔いて一遍に花を咲かせようと思っても順序を経ねば花は咲かないのである。
   今年種子を蒔かねば、その発生伸展の順序はその植物の一周期おくれる。

   それと同じように國の運命も、蒔くべき時に誤って『善行』が蒔かれなかったら、
   その國の一周期だけその國の運命の伸展がおくれるのである。

   しかし今年花を咲かない朝顔も、来年蒔き直せば朝顔の花は咲くのである。
   咲くと咲かぬとに拘らず花の理念は永遠不滅であり、
   咲くときにはその順序をもって展開するのである。

   日本の國の理念も善行の種子を蒔かないからその展開がおくれている。

   今、咲かないからとて朝顔の花の理念の不滅と、
   その開くときに伸展する順序とを疑ってはならぬと同じように、

   日本の國の理念も、これから国民が善行の種子を蒔くようにすれば必ず、
   その展開は日本の栄えとなってあらわれる。

   今のように国内互いに奪い合うようでは『大和』の理念などあらわれようがないのである。

      http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/21412717.html (消滅)

・・・

(2)《人類よ 互に賞讃し合え》

   「 人を審判(さば)くこと勿(なか)れ 」 とキリストは教えたが、
   自分を最も害する想念及び言葉は、人を審判く想念及び言葉なのである。

   世界の平和が脅かされるのも 他を審判く心と言葉との交錯によるのである。

   昔は 井戸端会議によって人を審判き、それによって近隣の不和を招いたが、
   今は ラジオによって全世界が審判き合って
   国と国との平和を害し合いつつあるのである。

   文明の利器も、それを使う人が光明思想にならない限りは、
   刀剣を小兒(こども)に弄(もてあそ)ばせるのと同じで、
   却って人類の不幸を来すのである。

   若(も)しラジオで全人類が互いを賞讃し合うことにしたならばどうであるか。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12195203.html (消滅)

・・・

(3)《無限の可能性を実現する祈り》

   【 祈り 】

   【 私は毎日 常に 自己が“ 神の子 ”であり、自己の内に無限の可能性を有し、
   常に一層 ゆたかに 健全に その可能性が 現実化するのである。

   わたしは 此の事を念じ 唱え 信ずるが故に
   わが希望する一切の善き事は 必ず 実現するのである。 】

   あなたの職業が何であろうと、今いるあなたの位置が何であろうと、
   あなたは今の時点に於いて、
   あなたでなければ創造することの出来ない個性ある価値創造をなすために、
   神の生命と智慧と愛とが噴出するための 噴出口であるのである。

   謂(い)わば、神の個性ある自己実現の中心なのである。

   それ故、自己の無限の可能性を信じ、その可能性が、あらゆる事物について
   健全なる方向に発揮されるようこの祈りを、
   毎日、寸暇を利用して 瞑目して 深呼吸の如く深く静かに息しながら
   数回宛(ずつ)念ぜられるがよい。

   言葉は その繰返しによって 一層 深く 潜在意識に印象せられ、
   宇宙の潜在意識にそれが感応せられて、
   それを実現するために 宇宙のあらゆる要素が あなたを中心に寄せ集められて、
   ついに 祈りの言葉の通りが 具体化することになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『すべて在るものの神秘を讃嘆せよ』

   感謝の次に必要なのは讃嘆である。

   感謝は受けることに対する受動的反応の要素を
   ‘より’多く含んでいるのであるが、

   讃嘆は積極的にこちらから賞讃の言葉を
   対象に対して打ちそそぐのである。

   天を仰いで日光の燦然たる美しさを讃嘆し、
   俯して地を見て万物を生い育てるその逞しき生命力を讃嘆せよ。

   あなたの子供の元気溌剌たることを讃嘆せよ。

   一輪の花の美しさをも讃嘆せよ。

   人々がその日その日の仕事を滞りなく遂行しつつある神秘を讃嘆せよ。

   小鳥の啼き声の美しさを讃嘆せよ。

   今自己が生きてある、そして生かされている神秘を讃嘆せよ。

   人は一切存在の神秘に目覚めるとき
   本当に自己の“生き甲斐”を感ずることができるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)革命は少数者の武装蜂起で成就する

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【我も佛もなかりけり】 

   一遍上人は、紀州鷲峯山興国寺の開山なる
   覺心和尚(龜山上皇より法燈禪師と謚(おくりな)せられ、
   更に後醍醐天皇より法燈園明國師と勅禪せられた名僧)
   について參禪修行中「南無阿彌陀佛」といふ公案を與へられ、
   「南無阿彌陀佛」を一心に稱名中、その悟るところを、

     唱ふれば我も佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして

   といふ歌に托して法燈國師に捧呈されたが、
   法燈國師は允可を與へ給はなかつた。

   そこで一遍は更に坐禪稱名、念想工夫を積み、その結果得たる悟りを、

     唱ふれば我も佛もなかりけり 南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛

   といふ歌に詠じて法燈國師に捧げられた時、國師はつひに
   「善いかな、善いかな」と允可を與へられたのだと傳へられてゐる。

   この「我も佛もなかりけり」の状態が“無心”といふのである。

   そしてその“無心”の中に、「何もないのか」といふと、
   何もないのではないのである。

   本當に現象への執著を滅して無心になった時、
   唯「實相」のみが獨在するといふ眞相が出て來るのである。

   “無心“になるまではその”有心“の妄想が「實相」
   を隠覆してゐて實相獨在の眞実があらはれないものなのである。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)”生命”は單に空想された觀念ではない

   ”生命”といふ觀念も”神”といふ觀念も同じく、
   ”生命”そのものは肉眼には見えないものであるけれども、
   それは「傳播や傳承」とは全然無關係に、

   ほとんど到る處であらゆる時代に、
   すべての人種を通じて「一般的同意」を得てあらはれているものだから、
   それは客觀的の存在だとみとめてよいものである。

   ”生命”とは決して單なる觀念ではなく、
   個人の恣意的な勝手な空想ではないのである。

   そこに「生命尊重」といふ語が「一般的同意」を得て、
   個人の利己的私欲的行爲を生命尊重の立場から制約し得る所以があるのである。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月2日 頓首再拝>

【三日の法語・言葉(4月3日)】 - 伝統

2026/04/03 (Fri) 04:57:08


(1)《『続々甘露の法雨』を詠む》~『白鳩』(昭和47年4月号)

   生長の家の経典の一つに『続々甘露の法雨』があります
   その一部から・・・

         天使(てんのつかい)つづいて説きたまふ。
         家庭の争ひ、
         嫉妬、
         憎悪、
         復讐、    
         憤怒の念(こころ) ――
         全ての悪念は健康の快復を妨ぐるなり。
         若しかかる悪感情起こらば
         速やかに『神の子・人間』に本来かかる悪感情
         無しと観じて、
         かかる感情を断ち切るべし。
  
   『生命の實相』を読み、人間は《神の子》であって、
    本来完全圓萬であるから病気は無いと
   いう《實相哲学》が理解できたつもりでいるのに、
   どういうのか病気が治らないで悩んでいる人があります。


   こんな場合には、家庭の内部に人間関係で
   不調和がありはしないかを脚下照顧し、反省し、
   家庭内に暗黙のうちに争いの精神状態又は、
   嫉妬、憎悪、復讐、憤怒その他いろいろの
   反感や逆念やがもしあれば、
    
   それを解消するために、もし自分があやまった方がよいと思うならば、
   素直にあやまり、互に打ち融けて感謝し合い、調和の心境に、
   家族中がなることが出来れば、その病気は消えてしまうのであります。

   茲に、『家庭の争い、嫉妬、憎悪、復讐、憤怒の念
   ―― 全ての悪念は健康の快復を妨げるなり』
   と示されているのはそのためであります。


   何故これらの悪念が家庭にわだかまっていますと、
   『人間・神の子』の真理がわかっていながら、
   病気が治らないかと言いますと、

   本当に自分が《神の子》だと悟られているならば、
   嫉妬や、憎しみや、恨みや、怒りや、悲しみや、口惜しさなどの感情が
   起こる筈はないのであります。

   そんな不浄な悪感情や悪想念が起こるのは、《人間・神の子》の真理が、
   頭脳(あたま)の表面(うわつら)ではわかっていましても、
   潜在意識の底の底まで全身全霊をもって
   《人間・神の子》の真理を自覚し得ていないからであります。


   それに《人間・神の子》の真理を頭脳で理解していましても、
   憎しみや、争いや、恨み、悲しみ又は不平等の感情がありますと、

   現象世界というものは、心の所現でありますから、
   その心の通りの形が肉体や環境にあらわれて来るのは
   当然なのであります。

   だから心の中に、不平や怒りの《心の固まり》が出来ますと、
   その感情を長くもち続けますと、やがてそれが肉体に具象化して、
   肉体に癌とか腫瘍とかの固塊があらわれて来るのであります。

   だからそんな病気があらわれましたら、『生命の實相』をよく読んで
   『人間本来、病なし』の真理を尚一層よく知ると同時に、

   《本来ない》ところの病があらわれているのは、
   『自分の心の反映(かげ)』であると知り、心を一変して
   心に感謝の念を満たし、教えを真剣に行ずるようにすると、
   本来無い病なのだから、《無》の實相をあらわして消えてしまうのであります。

    http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18655226.html (消滅)

・・・

(2)《難問題を神に委(ゆだね)よ》

   どんな借金でも神なら払えるのであり、
   神にまかせて解決しない問題は無いのである。

   「 神様、この問題は肉体の人間としての私には解決することが難しいのです。
   しかし神様は 無限の愛であられます。無限の智慧であられます。

   貴方(あなた)様の智慧によって解決しない問題はないのでございます。
   貴方様の愛によればすべての事がすべての人の幸福になるように
   解決することが出来るのでございます。

   この問題を、神様あなたに委ねます。
   あなたはこの問題をすべての人の幸福になるよう調和した状態で
   解決して下さいます。 」

   こう神想観中に繰返し念ずるようにするならば
   自然に解決の途(みち)が開けて来るものである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12198708.html (消滅)

・・・

(3)《“ 類 ”によって幸福を招き寄せる》

   【 祈り 】

   【 宇宙には“ 類は類を招き寄せる ”という法則があるのである。
   わたしは神の子たる自己の実相を自覚し、
   常に明るい心を維持し、明るい事柄のみを想念するが故に
   常に明るい幸福なるもののみがわれに集まり来るのである。】

   日本には、古来、

   “ 類を以って集まる ”とか、
   “ 笑う門には福来る ”とか、
   “ 泣き面に蜂“とか
   “ 瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なすび)は生(な)らぬ ”とか

   いう諺があるのである。

   福の神の如く、常ににこやかに笑って、明るい心を持続していると、
   明るい運命が引き寄せられて来るのである。

   これに反して、常に“ 憂い顔 ”をし、“ 泣き面(づら)”をしていると、
   類に従って、ますます“ 憂える事 ”は増加し、泣き面をかかねばならぬ
   ような出来事が身辺に集まって来ることになるのである。

   それ故に私たちは、今如何なる非常事態が出現し、
   前途が暗澹(あんたん)として見える時にも、

   今の暗黒状態は、過去に蓄積された“暗い心の思い”が形にあらわれて、
   その業(ごう)が消えて行く姿であるから、

   台風一過したあとに必ず青空が晴れ渡るように、
   何か、非常事態が出現して来た時には、

   「これで過去の業は消えてしまって、今後は、明るい善い事のみが
   あらわれて来るのである。ありがとうございます 」

   と感謝のみ ことばを繰り返すがよいのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『感謝と讃嘆とは幸福の筐を開く鍵である』

   あなたは他から感謝された時、心に悦びを感ずるであろう。
   そしてその人に何かもっと善き事をしてあげたいと思うであろう。

   また人から讃められたとき心に悦びを感ずるであろう。
   そして、もっと讃められるようなことをしてあげたいと思うであろう。

   では感謝と讃嘆とは相手から「善き事」を引き出すところの鍵である
   ことに気がつかれたに相違ないのである。

   それは神に対しても、子供に対しても同じことである。

   神の愛は無限であり、子供が親に対する愛も無限である。

   しかし、それらの愛は、或る程度以上は、
   こちらが感謝と讃嘆の鍵をもって開くまでは出て来ない
   “秘密の筐”の中に収められているのである。

   神に感謝し、神を讃嘆せよ。

   子供に感謝し、子供を讃嘆せよ。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

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(5)青年を惑わす有力新聞の言論

   (抜粋として)

  ①政府も国民も時局認識が甘すぎる。

  ②アメリカが日本を防衛してくれなかったら、
   ソ連は、ハボマイ、シコタンのところで
   日本への侵略を中止したであろうか。

  ③****が日本に進駐して来ないのは、
   アメリカが日米安保条約によって、
   他国の軍事侵略に対してニラミをきかしていてくれるからなのである。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【何故、法燈國師は允可せられなかつたか】 

   「唱ふれば我も佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして」の歌には、
   まだ本当の悟りが顕れてゐないので、
   法燈國師は允可せられなかつたといふのは、當然のことである。

   念佛稱名して無心となり、我も心もなくなつたまではよろしいが、
   「南無阿彌陀佛の聲ばかりして」ゐるといふのでは、
   まだ“救ひ”が無いのである。

   この場合聲は英語で謂えばSoundに當たると思ふのである。
   贔屓目に見てもVoiceである。

   それは單なる音響又は聲音にすぎないのである。
   それは録音されたテープから出て來る音聲のやうなものであつて、
   阿彌陀佛の生きた生命はないのである。

   それはLogos(言ことば)ではないのである。

   「耳にナムアミダブツと聞える音」でありさへすれば
   その音を聞きさへすれば極樂往生疑ひなしであるとすれば、
   録音テープに「ナムアミダブツ」と吹き込んでおいて、
   臨終の人の枕元で録音機にスイッチを入れて
   聞かせてやりさへすれば皆成佛するだろう。

   そんな事なら、お寺も僧侶も教會も要らないではないかと
   私は時々揶揄して話すことがあるが、全くその通りなのである。

   だから「南無阿彌陀佛の聲ばかりして」の一遍の心境に対して
   法燈國師は允可を與へられなかつたのである。

   http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

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(7)唯物論では”生命の尊重”は出て來ない

   ”生命”は單に空想された觀念ではない。
   それゆゑに生長の家發祥時の”七つの光明宣言”の第一絛に書かれてゐる。

   「吾らは宗派を超越し生命を禮拜し、
    生命の法則に随順して生活せん事を期す」

   が正當な意義を持つて來るのである。

   ”生命”が何故尊重せられなければならないかといふと、
   それは單なる物質の結合より生ずる化學作用ではないからです。

   もしそれが物質の化學作用で「生命」といふものが生れて來、
   その生命が大腦を作り、大腦から精神が生れて來て、
   そのために苦痛の意識や惱みの感情がわいてくるのであれば、

   その化學作用の根源となる物質の結合(肉體)を破壊してしまふならば、
   苦痛も惱みもなくなる
   ――それこそ”根本的救ひ”といふことになるはずである。

   つまり「安樂殺人」が根本的救濟といふことである。

   このやうな唯物論的人間觀からは
   「生命の尊重」といふ事は發生しがたいのである。

   更に況んや「生命を禮賛」といふやうな
   深い心境は生れて來ないのである。  

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月3日 頓首再拝>

【四日の法語・言葉(4月4日)】 - 伝統

2026/04/04 (Sat) 04:48:50


(1)《『個性を発揮しながら中心を逸脱しないこと』》
   ~『理想世界』(昭和46年4月号)

   創始者への恩を背かず、創始者の発見した真理の基礎の上に立ちながら、
   単なるその亜流にならずに、独創的な業績あげ、世界の文化に貢献しつつ、

   世界の渦の中に巻き込まれて個性を失うようなことはせず、
   更に一層大きく発展させるものこそ
   真に創始者の弟子だということが出来るのである。

   真理は中心であり、
   創始者はその中心の周囲に自己の時間の許す限りの輪を描く。

   彼の人生の時間には限りがあるから、
   ある程度以上に大きな円を描くことはできない。 

   次に続くものが、創始者の円の上に同じような円を重ねて描く。 
   そして一歩もその円周は創始者のそれよりも大きくならないならば、
   これが所謂亜流である。

   しかし同じ中心を周って図を描きながら創始者よりも包容面積の広い同心円を描く。 
   更にその次に続く者は一層直径の広い同心円を描く。 
   それは同心円であるから真理の中心から逸脱する事はない。

   こうして多数の後に続く者がより一層包容面積の広い同心円を描きながら、
   その真理から拡がっていく。 

   しかもその同心円は中心から外れていないから
   自然にひとつの中心に集まる組織となっていて、その団結が崩れる事がない。

   そしてその同心円を
   仮に黄色とか緑色とか紫色とかに着色してみると美しい図柄ができる。 

   その各々異なる色合いがその後継思想家の個性を表現するものと理解すればよい。

    http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19694729.html (消滅)


・・・

(2)《人に金を貸した場合》

   人に金を貸して払って呉(く)れない場合には、
   その反対に、「 彼は必ず 払ってくれるのだ 」
   と念ずるがよいのである。

   「 彼は 払う意思がないのだ 」 と考えたり、
   「 彼は とても払えないだろう 」 と考えたりすることは、

   心に描くことが形にあらわれる世界であるから却って、
   彼に払いたくない心を起させ、
   又、払えないような状態を惹起(じゃっき)するのである。

   自分の借金のある人に悪意を抱いてはならない、
   今払えないからとて憎みを抱いてはならない。

   悪意を抱いたり憎みを抱いたりするならば、
   やがてそれが形の世界にあらわれて、相手に悪意を抱かせ
   支払う心を杜絶(とぜつ)することになるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12201616.html (消滅)

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(3)《過去を心から放ち去る祈り》

   【 祈り 】

   【 過去は既に過ぎ去ったのである。過去は既に無いのである。
   それは鳥が飛び去った跡の蒼空(あおぞら)のようなものである。
   私は過去に私に害を与えたすべての人を宥(ゆる)し、
   心から放ち去ったのである。

   私がすべての人の過ちと罪とを宥し去った如く、
   神も私の過去の一切の過ちと罪とを赦し給うて、
   今、私には一点の濁(にご)りもなき清浄潔白な実相があらわれたのである。

   それ故に今後は、私には 善き事、裕(ゆた)かなる事、美しき事、
   調和せる事、幸福なる事のみがあらわれて来るのである。】

   人間は“ 神の子 ”であるから本来自由自在で、
   凝滞(ぎょうたい)なくすべての事物の進行が円満に行われ、
   その希望することは必ず成就するように創造(つくら)れているのである。

   すべての事物の滞(とどこお)りや難航は、
   現象界の事物の動きに、“心”が捉えられ、
   それに“心”が引っかかっていて、
   “心”が自由自在を失ってしまった結果なのである。

   それだから、あなたは、心の中に“過去”を把んでいてはならない。

   神想観を実修して、神の智慧の導きを受け、
   “ 今 ”目前にあらわれている事物に、
   その智慧を集中して、誠をはげみ、

   過去もなく、未来も無く、ただ“今”
   神の智慧と一体となって神と偕に動いていると
   いう自覚の下に、自己の働きを集中するとき、

   自己のはたらきは必ず、神の働きとなり、
   如何なる事物も都合よく すらすらと進捗(しんちょく)する
   ようになるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『周囲の雑音に巻き込まれてはならない』

   外からなる雑音に耳を傾けること勿れ。

   雑音は純粋なる音楽の美しさを掻き乱してしまうように、
   あなたの純粋なる清き心の波を混乱状態に陥れて
   あなたを不幸に陥れるものである。

   あなたは“神の子”としてただ純粋に
   “愛”と“調和”と“美”と“感謝”と“讃嘆”との
   心の音楽を奏でるだけでよいのである。

   純粋に、外界の雑音に巻き込まれることなく、
   “神の子”として、神授の生命の音楽を奏でているか、
   ただひたすらにそれのみを念願して美しく、清く、愛の生活を送りつつ、
   すべての物と、事と、人とに感謝と讃嘆の声と想念とを送るようにする
   がよい。

   やがて一切の雑音は消え、
   周囲のすべてがあたなに感謝し讃嘆する声を聞くであろう。

・・・

(5)社会党の目指すもの

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【南無阿彌陀佛のみの實在について】 

   われわれが“南無阿彌陀佛“と至心廻向して稱名念佛するとき
   救はれるというのは、その聲音がナムアミダブツと聞えるから
   救はれるのではないのである。

   稱名念佛としてその極致において心が廻轉して”無心”となった時、
   現象を見聞覺知する心が、”無”となるために、實相を覺知する
   内在の佛性があらはれる(これを吾々は實相覺と稱している)。


   そして内在の佛性が普遍の佛性を覺知し、儘十方に滿つるところの
   南無阿彌陀佛を自覺するに至るのである。

   これが、一遍上人の悟りの御歌――

   「唱ふれば我も佛もなかりけり 南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛」である。

   「我も佛もなかりけり」の“我に対する佛”は我に相對するところの現象佛
   であるから、それは假想であつて、實相佛ではないから
   「なかりけり」で即ち消えてしまふ譯である。
  
   そして其処に否定しやうにも否定し得ないところの
   “南無阿彌陀佛“のみが遍滿實在し給ふのを見るのである。

   「南無」は歸一である。無心によつて、實相に歸入する時、
   阿彌陀佛に中心歸一する實相巌淨の世界の實在を見るばかりである。

・・・

(7)” 生命の尊重”に人類全體の”一般的同意”が得られるのは

   ”生命の尊重”が叫ばれると、殆どすべての人間が、
   場所も時も人種も超えて「一般的同意」(general consensus)を與へた
   といふ事實は、 

   ”生命”といふものの實在(實在しないものは尊重に價しない)を
   すべての人間が潜在意識の底に信じてをり、”生命”といふものが
   物質の單なる化學的結合によつて生じたものではないといふ事を知つてゐる
   證據だとみとめられるのである。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月4日 頓首再拝>

【五日の法語・言葉(4月5日)】 - 伝統

2026/04/05 (Sun) 04:58:40


(1)《果報は寝て待て》~『光の泉』(昭和34年4月号)

  「果報は寝て待て」 と云う諺がありますがね、
   「果報」 というものは、原因に対して起る結果としての報いであります。

   悪い原因に対して起る結果は悪い報いとしてあらわれて来ますが、
   「果報は寝て待て」 と云う場合の 「果報」 は“善い果報” であります。 

   “善い果報” を得るには、「我」 のはからいで盲動してはならない。 
   心を鎮めて、そのままの動きにまかせよと云うのが 「寝て待て」 であります。

   「我」がなくなり天地自然と一つになって、自然と眼が覚めて天然自然にあくびでもして、
   ‘ほっ’と“伸び”でもしたら、棚にゴツンと、伸ばす手があたると、
   自然に棚から‘ぼた餅’が落ちてくるのであります。 

   それは「我」のはからいでなく、自然の動きであります。 

   「動き」がなければならない。 
   行動化がなければならないが、「我の心」の行動化ではなく、
   天地自然の動きそのままに動くことが必要なのであります。

   紛失物を探すのにも、我々がうろたえ騒いでさがし廻ると、なかなか見附からないもの
   ですけれども、そう云うときに落着いて、心を鎮めて神想観をして、天地自然の智慧と
   一つとなって、‘ふと’明けたくなって抽斗を開いてみると、

   「ああ、ここに探していた品物があった。不思議だな、さっき此の抽斗の中の物を
   ひっくり返して調べてみたのに、あの時はどうしても見附からなかった。 
   それなのに、神想観をしてから、‘ふと’開くと‘そこ’にあった」 

   というようなことがおこってくるのであります。

   すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで
   「我」の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。

   「祈り」 又は 「神想観」 によって天地の智慧の中に没入し
   「我」と云うものが無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
   何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

   併し祈ったり「神想観」すると言っても、
   動かないで祈っておったらいいというわけではありません。

   祈り且つ神想観をすれば、心が整って、実相の智慧と一つになるのです。 
   実相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという内からなる
   “催し”が自然と湧いてくるのです。

   その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動する
   という所に信仰が行動化し、そこに実相の完全さが、その行動を通して実現して来る
   ということになるのであります。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19662144.html (消滅)

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(2)《恩を施して恩返しを期待せず》

   人に恩を施して、心の中に恩に着せる心を持っている限り、
   相手は束縛せられた気持になって、
   こちらに対して恩を返さなくなり勝である。

   若(も)し恩を与えながら、恩に着せる心がなくなるならば、
   束縛されることなく、従って反撥(はんぱつ)心がなくなり、
   相手は正直に恩を受けていることを承認して
   却って恩を返すようになるものである。

   喜んで相手を助けて、
   あとは忘れてしまっているようなのが本当によいのである。

   相手が恩を返さないので、
   やむを得ず、恩返しされることをあきらめたのと、

   全然恩返しなどを期待しないで
   相手に与えたのとは 余程 相違があるのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12206004.html (消滅)

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(3)《不安恐怖を去り問題を解消する祈り》

   【 祈り 】

   【 神言い給う 「 我に来れ、我れ汝を安息(やす)ましめん 」 と。
   わたしは 此の “ 神の言葉 ” にこたえて一切の “ 自我の心 ” を棄て、
   ひたすら心 神に向かう。

   私は 神に無条件に全托し、すべての問題を神に委(ゆだ)ねて
   神にそのまま 倚(よ)りかかる。

   それ故に 何の不安も心配もなく、神の平和と調和と健康と悦びとは
   そのまま わが平和となり、調和となり、健康となり、悦びとなったのである。

   すべての問題は、すべての人間を幸福にし給う
   神の智慧と愛とによって解決せられて、
   皆が悦び、私もまた悦ぶのである。

   われ神に感謝し奉る。ありがとうございます。 】


   あなたは自分の手をひろげて、またそれを握って見てご覧なさい。
   握っている掌(てのひら)の中には
   極(ごく)わずかの分量しか入らないでしょう。

   併(しか)し その掌をひらけば その上に虚空が載るのです。

   禅宗には 「 空手還郷(くうしゅげんきょう)」
   という語(ことば)があります。

   心の把みを放して、心が空っぽになって故郷(ふるさと)に還りなさい。
   そこは 自由自在の境であり、無限供給の世界であるという意味である。

   故郷というのは 自分の 「 実相 」 のことです。

   みんな悩んでいる人は、過去をつかみ、人の過ちをつかみ、
   自分の失敗をつかみ、問題をつかみ、
   自分勝手に、神の子本来の自由自在を棄てて悩んでいるのです。

   本来神の子の実相郷里に還れば、
   其処(そこ)は既に天国であり、龍宮城であり、
   無限の宝の世界なのであります。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

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(4)『清き想念は天国を開く鍵である』

   愈々あなたの“心”が純粋となり、清らかとなり、
   本来の美しさが現象にまで展開してくるとき、
   あなたの一挙手一投足ことごとく神に導かれて
   間違いなく榮えの方向に動き出すことになるのである。

   清く美しき純粋なる“心”の想いというものが天国をひらく鍵であり、
   天国の音楽を受信して地上にそのままにその天楽を再現するための
   アンテナとなり、ラジオ・セットとなるのである。

   その時、あなたの生活には、ひとつとして過ちなく、行き過ぎなく、
   不足なく、圓萬完全なる調和したものとなるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

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(5)【社会党の目指すもの】

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【先入觀念を棄て去ること】 

   嘗て――戰前の事であつたが、花王石鹸の山崎副社長のお宅であつた
   誌友の集まりの際に招かれて出席したことがあつた。

   その時、山崎さんはご自分が神戸のキリスト教のミッション大學である
   關西學院の出身であること、靑年時代から宗教に關心を持つて色々の
   宗教家の門をたたいてその見解(けんげ)を尋ね歩いて、
   一応宗教的眞理は領解(りょうげ)した氣持ちになつてゐた頃、

   禪で有名な南天棒老師の教へを受けようと思つて老師の住持せるそのお寺に
   参詣して來意を告げると、入口に近い一室で待たせられて、
   なかなか老師が出て來られなかつた。

   やがて小僧が煎茶茶碗と土瓶とを携へて來て、その茶碗になみなみと
   お茶をついでくれて「どうぞ召し上がれ」といふのである。

   そこで山崎さんはそれを飲み了ると、また、なみなみとお茶をついでくれて
   「どうぞ、どうぞ」と飲むやうに促すので、またそれを飲み干すと、
   小僧は又なみなみと注いでくれる。

   それを繰返してゐるうちに胃の腑はお茶でいつぱいになつてしまつて、
   もうどうにも飲むことは出來なくなつた。

   それで、山崎さんは「もうお腹いつぱいで入りません」といつた。

   すると小僧はそのまま一揖して立ち去つたが、それきりいつまで経つても
   老師は無論、小僧も出て來なかつた。

   そして山崎さんの前には、もう飲むことが出來ない茶碗に
   一杯の煎茶が湛へられたままそこにあつた。

   山崎さんは、その茶碗の煎茶を眺めながら、ハッと悟つたといふのである。

   いろいろと宗教の學説や諸家の教説や見解を一杯詰め込んでいる限りは、
   本黨の眞理の話をしてあげても、それが自分の魂の榮養として
   取り入れることが出來ないのである。

   眞理を知るには今までの先入觀念をきれいに拭ひ去つて、
   無心になつてしまはねばならないのである。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

   (このお話については、「真理第一巻入門篇(P188~189)」
    にもあります。https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251349 )

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(7)生命は何故尊重されるか

   ”尊重”の感情が湧いて來るのは、そのものに”價値”があるからである。

   ”價値”があるのは、そのものが”本當に存在する”からである。

   ”価値”があると思つて貰つたものが、掌の上で消えてしまつたならば、
   それは”價値”がないのであり、”價値”があるとだまされてゐたのである。

   ”生命の尊重”といふものが尊重されるには、
   それは”本當に存在する”からであり、
   ”本當に存在する”ものを”實在”といふのである。

   ”生命”はそれみづから實在する。
   それゆゑにそれは尊敬され尊重されるのである。

    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月5日 頓首再拝>

【六日の法語・言葉(4月6日)】 - 伝統

2026/04/06 (Mon) 04:48:31


(1)《如何(いか)なる暗黒に面しても自分は人を憎まない》

   如何に周囲のものが辛くとも、如何に悲しみがおそいかかって来ようとも、
   吾(われ)は決して そんなことによって人を憎むことはないのである。

   そのような不完全な姿が現われて来るのは、その不完全を通してさえも
   「 完全なる本当の存在の実相 」 をみる力を
   吾(わ)が魂に養(やしな)わしめんがためであるのである。

   吾々が困難に対して自分自身が しばられなくなった時にのみ
   本当に吾々は自由を得たということができるのである。

   みせかけの不完全な状態に苦しまなくなり、
   黒雲の奥に輝いている太陽をみて感謝する心境になった時にのみ
   その人は本当に自由になったのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html(消滅)

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(2)《神の供給は無限である》

   宇宙は 無限の神の創造であるから、
   宇宙に於ける供給は 無限であるのである。

   吾々は 此(こ)の宇宙無限の供給を心に描いて
   自分に流れ来つつある有様を想念することによって、
   それを自分のものとすることが出来るのである。

   何人(なんぴと)も彼が神の子である限り
   欠乏すると云うことはないのである。

   すべての人は平等に富んでいるのである。
   それを欠乏させるものは 欠乏の感じにほかならないのである。

   「 欠乏を満たし給え 」 などと欠乏の語(ことば)を使って祈ることは
   心に「 欠乏 」 の感を深く印象することになって、
   その祈りは却って逆効果になるのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12208729.html (消滅)

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(3)《自己の想念の型を変えましょう》

   【 祈り 】

   【 わたしは “ 神の子 ” であり、
   神に導かれて想念感情の従来の型を一変したのである。

   私は今後、幸福のみを想うが故に幸福のみが来るのである。
   私は今後、裕(ゆた)かさのみを想うが故に無限の裕かさが来るのである。
   私は平和と調和のみを想うが故に平和と調和のみが来るのである。

   私は常に人に親切と愛とを与えることを想うが故に、
   すべての人から親切にされ愛されるのである。
   ありがとうございます。 】

   人には従来の生活習慣から持続して来たところの
   想念の癖(くせ)又は型があるのである。

   人の欠点のみを見る癖をもっている人もあれば、
   その人が来れば、必ず問題を惹(ひ)き起すような
   物の考え方をする人もある。

   それによって、それらの人々は自分の想念の癖の通りの運命を
   自分自身で造り出しているのである。

   だから、以上のような言葉を神想観中に念じて、
   暗い方面を兎(と)もすれば観る心の習慣をクラリと転じて、
   人及び事物の明るい面を見る心の習慣をつけるように致しましょう。

   必ずあなたに明るい運命が訪れてまいります。

   人間の運命は外から運命の神様がそれぞれの人々に割当てられるのではなく、
   自分の想念が内から造り出して外にその映像をうつし出すのであります。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

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(4)『“迷いの心”は何処から来たか』

   人間は神の最高の自己実現であるから、本来健康であるのである。

   虚弱とか病気とかいうものは、
   “迷いの心”のあらわれにすぎないのである。

   ではその“迷いの心”は何処から来たのかというと、
   “迷いの心”という‘もの’があって、
   それが何処かの国から旅行して此処へやって来た
   というようなものではないのである。

   それは自己が“神の子”であり、
   “神の最高の自己実現”であるという
   霊的実相を自覚しない‘あらわれ’である。

   それは心が半覚半睡の状態に於いて夢を見るようなものである。

   その夢の中に於いて“病気”を現実として見、
   不幸を現実として見、災害を現実として見る。

   そして夢が醒めない限り、夢中の人にとっては
   たしかに病気その他の一切の悪も不幸も現実であって、
   いくら非存在だといわれても、非存在だとわかる筈はないのである。

   『無門關』の第九則に 
   「大智勝如来は十劫の間道場に坐禅して尚悟りをひらかなかったのは何故であるか」 
   の公案があり、

   「‘彼が’悟りをひらかざるなり」ということがその公案の解決となっているが、
   人間は全能全智〈大通智勝〉の“本源仏”または、“神の”自己顕現であっても、
   みずからがその瞼を開かないで実在を見ないでいる間は、
   非存在の“夢中事実”を実在だと見るほかはないのである。

          〈※参照 谷口雅春先生著 『無門關解釋』〉

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)自己を衛るものは自己である

   「神はみずから助くるものを助く」という有名な諺がある。

   自分のことには自分が責任をもって自己発展すると共に、
   自己防衛しなければならないのである。

   これはすべての生物界での鉄則であり、人間だけ、又は国家だけ、
   他の力に防衛して貰って、自分だけレジャー・ブームや、昭和元禄生活で
   浮かれてばかりいて可いというものではないのである。

   「四十歳を過ぎたら自分の容貌に責任を負わなければならぬ」という諺がある。

   自分の顔だけではない、自分の住む国家がどんな姿であるかは、
   国民の精神がどんな状態で続いているかが、
   国家の容貌にあらわれているのである。

   国家の防衛は他国任せで、自分の生活は安易な享楽気分で浮かれている精神で、
   もう十年も続いていたら、日本国の将来が思いやられるのである。
 
   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【兎もすれば人間には增上慢の心がある】 

   釋尊が「四十餘年間、未だ眞實を顕はさず、今まさしくその時なり、
   これから眞實を説くぞ」といふので、法華經をお説きにならうとすると、

   その集會中の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等が、
   罪根深重にして且つ增上慢にして、未だ得ざるを得たりと思ひ、
   未だ證せざるを證せりと思つて、釋尊の説法を聴聞せずに立ち去つた
   といふことが『法華經』の方便品に出てゐるのである。

   眞理の教へを聴いて救はれるためには、
   「未だ得ざるを得たり」と思ふ增上慢の心を棄て去つて
   無心になることが必要なのである。

   花王石鹸の山崎副社長が南天棒老師を訪問されたが、
   つひに老師に面會の機を與へられずに立ち去らねばならなかつたのも、
   この增上慢の心が看破されたからに他ならない。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

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(7)神モーセにその名を語り給ふ

   ”生命”は實在する。
   それゆゑに生命は「實在」である。

   唯一の「實在」は”神”のみである。


   モーセがエジプトからの俘囚から解放される直前の出來事である。

   モーセが家畜の群れを引き連れてホレブの山に到れるとき、
   棘(しば)の中の輝く焔の中に”神”が現れたまふ。

   モーセこれを見るに棘が炎に包まれてあるのにその棘燒けず。

   神言ひ給ふ

   『我必ず汝と共にあるべし。
    是はわが汝をつかはせる證據なり。
    汝、民をエジプトより導きい出したる時、汝らこの山にて神に事へん』と。


   モーセ神にいひけるは、

   「我イスラエルの子孫(ひとびと)の所にゆきて、汝らの先祖等(たち)の神、
    我をなんぢらに遣はしたまふと言はんに、
    彼等も其の名は何と我にいはば何とかれらに言ふべきや」


   神モーセにいひたまひけるは

   「我はありてある者なり」

   神またモーセにいひたまひけるは、

   「汝かくイスラエルの子孫にいふべし”我有り”といふ者、
    我をなんぢらに遣はしたまふと」(『出埃及記』

   これが唯一神なる實在者なる神のみ聲である。

    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月6日 頓首再拝>

【七日の法語・言葉(4月7日)】 - 伝統

2026/04/07 (Tue) 04:59:13


(1)《人間は外界に左右されては自由人ではない》

   外界にしばられている限りは
   人間は決して自由人だということはできないのである。

   吾々は外界を超えなければならないのである。

   内界によって外界を完全に支配することができた時にのみ
   自分が自分で自分の運命の主人公となったのである。

   今自分の肉体の力は如何に弱くとも
   それを本当の自分が弱いのだと思いあやまってはならないのである。

   本当の自分は 自己に宿る 「 久遠のキリスト 」 であり、
   自己に宿る 「 久遠の釈迦(しゃか) 」 であるから、
   すべての不幸をこえ、死をさえもこえる所の力をもっているのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786946.html(消滅)

・・・

(2)《欠乏を豊富にかえる思念》

   チャールス・フィルモァは 欠乏を満たすための祈りとして
   次の言葉を推奨(すいしょう)している。

   「 神はわが供給の本源であって、
   わがあらゆる事物に豊かなる供給を満たしたまうがゆえに、
   自分は最早(もはや)経済問題に
   何等(なんら)心配の感を抱かないのである。

   正直、迅速、能率、秩序等 経済上に必要なる一切の徳は
   神から与えられて
   わが経済は順調に進むのである。

   自分は量に於いても質においても
   凡ての有限の感じから解放されたのである。

   キリストの超無限の富は今わがものであるのである。
   自分はあらゆる点に於いて繁栄し隆昌しているのである。」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12212649.html (消滅)

・・・

(3)《人を審(さば)く心を棄てるための祈り》

   【 祈り 】

   【 神は“ 人を審くこと勿(なか)れ、
   人を秤(はか)りたる量目(はかり)にて
   また汝も審かれん ” と仰せられました。

   私は今後、決して人の善悪を現象の姿を見て
   判断しようとは思わないのである。

   すべての人間は “ 神の子 ” であり、
   悉く皆、神の善徳を、実相のうちに
   包蔵しているのである。

   私は常に人を観るに、その実相完全の姿のみを観て、
   感謝し礼拝し讚嘆するのである。

   それ故に、人もまた私を見るのに、実相の円満完全な姿のみを見て、
   私を賞め讚え礼拝してくれるのである。

   その結果、私には、常に一層実相の完全な相(すがた)があらわれ、
   一層よくなるほかはないのである。

   ありがとうございます。 】


   あなたが若(も)し人を見て、その欠点を見出し、
   それを批難し攻撃したい感情が起って来たならば、
   此の祈りを思い出しなさい。

   そして、“ 私は神の子 ” であるから、
   人を見るのに神の子なる実相のみを
   観ることが出来るのである。

   人の欠点を観て、それを攻撃批難しようという心が起って来たのは、
   これは私の“ 本当の心 ”(実相の心)ではない。

   それは“ ニセモノの心 ”であるから、
   そんな心の惑わしに引っかかる事なく、
   あの人の実相の完全を観る力を私は本来授けられているのである
   と思い返して

   あの法華経にある「 常不軽(じょうふきょう)菩薩 」のように、
   現象の姿を一時見ないために肉眼をとじて、
   心に相手の完全な相(すがた)を描いて
   心で礼拝し讚嘆するようにつとめなさい。

   屹度(きっと)相手たるその人の性格や行動に変化が起り、
   立派な人になって頂けます。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『今、あなたの想念次第で一切が一変する』

   すべての人に与えられた仕事は
   自己内部の完全なる実相を外部に表現するための
   “魂の研磨修練”である。

   それを他から課せられたる重圧だと考えるときは、
   それは重圧としてその人の生活に‘のし’かかる。

   それを自己を一層美しき姿に研き上げるための“恵み”として受けとれば、
   それは“恵み”に変貌するのである。

   それは想念は一切を変貌する力をもっているからである。

   人生を支配する秘訣は、今まで自己が単に受動的に受けていたものを、
   自己を能動的に働かして、自己が積極的に能作者となることである。

   自分が自分の主人公となることである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

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(5)昭和四十五年の革命への実力テスト

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【增上慢の實例を讀む】 

   天岫接三(あまくきせつさん)師の禪話の中にもこんな話がある。

   明治御維新の當時、京都の相國寺に越渓禪師といふ高僧があつた。

   日清戰争當時に外務大臣になつてゐた陸奥宗光の父に當たる人で、
   相當な儒者であった伊達翁が、偶々相國寺を訪れて
   越渓和尚に面會を求めて教へを請うた。

   「私は御承知かとも存じますが、儒學を修めたもので、道の何たるか位は
    一通りは心得てをりますが、禪の道はまた格別でございませうで、
    今日は一つ道の御話でも承りたいと思うて御邪魔致しました。」といつた。

   その刹那、和尚は何を思つたか、
   いきなり大きな平手で伊達翁の横面をピシャリと打たれた。

   これは儒學という先入觀念でいつぱい頭に詰め込んでいて、
   何でも道の事なら知つてゐるといふ增上慢の心が見え透いた
   伊達翁の初對面の挨拶だつたからである。

   「一つ道の話でも」などと、“でも附き”で
   悟りの話を聴かして貰はうといふやうな處に
   越渓和尚は我慢がならなかつたのだと思はれる。

   “道”といふものは番茶でも飲むやうな輕い氣持で聴くものではないのである。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

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(7)神は名前を付けて限定することはできない

   神は本來”無名”であり給ふ。

   神は絶對者であるから、限定しがたきものである。

   若し名前を付けたら、名前の表現し得る内容にしたがつて、
   それだけ”神”を限定してしまふ事になるのである。

   だいたいモーセが神のお名前をたづねたことが、
   まだ彼が”神”を人間と對立的にある存在だと見てゐた
   モーセの妄想からである。

   もっとも棘の燃えずしてしかも輝く焔の上る靈光の中から
   神はモーセに語り給ふたのであるから、モーセにとつて見れば、
   その神は、自分の外にあつて自分に對立してゐる神であり、
   多神教的に色々の神々の中のひと柱の神であると感じたのも無理はないのである。

    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月7日 頓首再拝>

【八日の法語・言葉(4月8日)】 - 伝統

2026/04/08 (Wed) 03:46:02


(1)《神と共に戦う者は平安なり》

   困難に面して自分の力を以(もっ)て戦うと思うな。
   自分の力で戦うと思うものは、
   力が尽きてしまって結局 挫折してしまうのである。

   自己の内に宿る神の力に頼る者は
   永遠に挫折するということはないのである。

   ここに無我全托(ぜんたく)の全勝である秘密があるのである。

   自分が謙遜(けんそん)になった時にのみ
   神は力を与えて吾々を支え給(たま)うのである。

   神は常に自分を護(まも)り給い 幸福にし給い、平和を与え給うのである。
   どんな困難が来た時にも 自分の力で それに対抗しようと思ってはならない。

   「 吾 神と共にあり、吾 神と共に生く、何をおそれんや 」 と
   念じ乍(なが)ら進むが好(よ)いのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786986.html(消滅)

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(2)《感謝の念は供給を増す》

   チャールス・フィルモァは 『 心の原子爆弾的力 』 と題する書のなかで、

   『 我らが既にもてるもの、又は神の子として我々自身に期待し得るものに対して
   感謝する言葉は、唯(ただ)の一語でも、神の無限供給の本源より
   豊かなる供給を発掘する力があるのである 』 と云っている。

   それをメリー・ルーイズ・キュープファール女史は 註釈して、
   その感謝の実践は 「 什一税の実践 」 が最も好いのであるとしているのである。

   什一(じゅういち)税と云うのは 自分の収入の十分の一を神に感謝の意味で
   献げることなのである。

   その什分の一を献納することも
   慾ばる心や、単に機械的に行うのでは可(い)かぬ。

   真実感謝の念が伴わなければならないのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12215673.html (消滅)

・・・

(3)《“ 神は愛なり ” の祈り》

   【 祈り 】

   【 私は“ 神の子 ”である。神は愛である。
   私の内に神さまの愛を実現するセンターがあるのである。

   それ故に私はすべての人間に対して、常に愛行を怠らず、
   愛行を実践するたびに生き甲斐を感ずるのである。

   ありがとうございます。 】

   生き甲斐というものは、自分自身が本来の生命の姿そのままに、
   それを歪(ゆが)めることなく、曲げることなく、抑える事なく
   発顕(はつけん)せしめ得たときに感じられるところの
   内部的“ 自覚感情 ”である。

   『 生命の實相 』の“ 生活篇 ”の中に一国の王子に生まれて、
   物質的には何不自由なく、求めて得られざるものとてもない
   裕(ゆた)かなる環境条件の中で育ちながら幸福感が得られないで、
   いつも悒鬱(ゆううつ)な顔をしているので

   父王(ふおう)が心配して、

   この王子の心を幸福感に充たされ生き甲斐を感じるようになるように
   善き智慧をかしてくれたる者があったら、褒美(ほうび)の金は望み次第だと
   いう布令を出したら、色々の案をもって来る者があったが、いずれも落第で、

   最後に最高の案をもって来たのは一人の魔法使であったが、
   彼は一枚の「あぶり出し」の白紙を置いて去った。

   それを火の上にかざして炙(あぶ)ると、その白紙にあざやかに、
   「 毎日必ず誰かに深切を施せ 」 という文字(もんじ)があらわれて来た。

   王子はそのように実行すると、生き甲斐の悦びが感じられ、
   顔は幸福感に充たされて悦びに輝いて来たという
   例話(れいわ)が書かれている。

   「 深切を施す 」ということは“ 愛 ”を実践することであり、
   神は“ 愛 ”であり、“ 神の子 ”たる人間の本質も“ 愛 ”であるから、

   愛を生活に生きるようにしたとき、
   自己の生命の本質を完全に生きることになるから
   生き甲斐が感じられて来るのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『あなたの家庭を天国に致しましょう』

   自己が自己の絶対的主人公となるためには、
   自分自身を“肉体”と称する物質的存在ではないと知り、
   自己の生命の実相を、一切のものの上に君臨する“神”の生命が、
   今自己に天降って顕現しているのだと知ることが必要である。 
 
   あらゆる“場”又は境遇又は環境は、自己の実相なる完全さを、
   より一層明らかに開顕するための道場であると信ずるがよい。

   何物もあなたを害する者はないのである。

   若し何らかの摩擦が、周囲の人々との間に起るならば、
   金鉱の荒鉱を精錬して純粋の“金”として
   光を放たらしめるための手続きが行われつつあるのである。

   父母・舅姑・兄弟姉妹。小姑・その他すべての家族は
   悉く自己の魂にとって先生であり、
   色々の教訓を与え給うているのである。

   このようにみずからが、自分の自由意志で想いを旋らし、
   一変するとき其処がその侭天国となるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243
・・・

(5)共産革命は甘い平和国家が樹立される事ではない

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【伊達翁に越渓和尚の痛棒の意義】 

   越渓和尚に頬ぺたをシタタカ擲られた伊達翁は、
   驚いて思はず室外に飛び出したが、無念でたまらず、
   自分は主君三代に仕へて來た武士であるのに、
   未だ嘗て主君からさへ一指を添へえられたことがないのに、

   この和尚の無禮、武士としての面目、もはや容赦はならぬ、
   斬つて捨てようと刀のツバに手を掛けて、
   今にも老師の室へ斬つて入らうとする姿勢である。

   これを見た一人の弟子の僧が、

   「何事か存じませぬが、お茶でも召し上がつて落ち着いてお話をすれば
    分ることだと存じますから、どうぞこちらへいらしてください」と
   茶の間へ案内し番茶を汲んで出した。

   伊達翁がその茶を飲もうとして、口の辺りまで持つて行つた時、
   その僧は伊達翁の、茶碗を持つた手の方の着物の袖を何気ないふりをして
   引くと、腕が振るえて、茶がこぼれて畳の上は一面茶の海となつた。

   その時、僧は、

   「先ほど一寸うかがへば、あなたは“道”の何ものか位は一通り
    心得て居られるとの事でしたが、承りませう。如何なるか是れ道?」

   と禪問答を仕掛けて來た。

   伊達翁は四書五經中のどの句を持ち出して答へようかとアクセク考へたが、
   急に適切な文句が見付からない。

   それで答へずにいると、僧は、

   「如何なるか是れ道?」と更にたたみかけて問ふ。

   さう畳みかけられたのでは、却つて返事が出來ないのである。
   すると、僧は、

   「甚だ失禮ですが、私共の“道”をお目にかけませう」というかと思ふと、
   手近にあった雑巾をとつてこぼれた番茶を拭ひ終わると、

   「私共の“道”はこれであります」といつた。

・・・

(7)”ヱホバ神”の本當の意味について

   神はその時、「我有り」といふ者が自分だと答へられたのである。

   英語聖書では「我有り」と和譯された部分をI AMと英譯されてゐるのである。

   すべての人に、物に、宿り給ふI AMこそが、
   「我有り」(われは實在者なり)といふ”神の本體”なのである。

   即ちすべての人に物に宿り給ふ「内在の神性」が「我有り」なのである。

   ヘブライ語では、この「我有り」といふ語をYahowah(ヱホバー)と言ふので,
   神はモーセの問に答へて「ヱホバー」と言ひ給うたのである。

   人々これを勘ちがひして「ヱホバ」といふ固有名詞の名前の付いた神だと思つて
   「ヱホバ神」といふ個別的な神にしてしまつたのである。

    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月8日 頓首再拝>

【九日の法語・言葉(4月9日)】 - 伝統

2026/04/09 (Thu) 05:00:30


(1)《自分が無くなり神に全托すること》

   吾は 今 神の無限の力に信頼 して、
   すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。

   私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
   私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。

   私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
   自分の生命を神に全く うち任せたのである。

   ‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
   それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。

   「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
   いい給うているのが それが神であるのである。

   神にすべてをまかす吾は強いのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html (消滅)

・・・

(2)《神と一体となりて仕事をするには》

   神にすべての仕事をゆだねよ。

   神にすべての仕事をゆだねると云っても
   自分が何事もなさないと云うことではないのである。

   自分が神の力の流れ出(い)ずる
   パイプとなり出口となると云うことである。

   何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
   数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
   疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。

   すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。

   すべての仕事を神に導かれ為すところの
   自己向上の途(みち)であると思ってなせば
   楽しく好成績に順潮に運ぶのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html (消滅)

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(3)《わが家を天国浄土にする祈り》

   【 祈り 】

   【 わたしは今、静かに神の御前(みまえ)に座して神想観を修し、
    自己に宿り給う生命の本質が“ 神 ”であることを自覚するのである。

    神われに在り給い、われ神の内にあるのである。
    内外ともに神であり、私は神と一体なのである。

    神は善であり、全智であり、全能であり、無限愛であるから、
    愛に背くもの、智慧に背くもの、善に背くものは
    何一つ此の世に存在しないのである。

    神と一体である自分が今住んでいる我が家は
    まことに“神の国”であり、天国浄土である。 】


   あなたは平和を求めるとき、調和を求めるとき、
   そして一切の不調和を消し去って、
   自分の住む世界を天国浄土とならしめたい時、
   上のごとく念ずるがよいのである。

   そして自己の全生活と、全心身とを神の中に投げ入れ、
   没入させるがよいのである。

   更に自分の家族たちに何か不完全に見えることがあるにしても、
   人間的知恵をもって、
   その不完全の存在を認めてそれを匡(ただ)そうとしないで、

   神の叡智の導きにそのまま委(まか)せ切って、
   神のおはからいにその人間又は問題を完全にお預けするとき、
   神にまさる知恵はないのであるから、どんな問題もスラスラと解決し、
   どんな人間も、神の子の実相があらわれて善化するに至るのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

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(4)『この世界は想念の展開である』

   私たちの見渡すところ、一切の家、家具、什器、衣服、食卓にある食物、
   自動車、電車、飛行機等ことごとく、
   想念によって現在の形になっているのである。

   人間の想念の通りに、物質が形をかえて
   人間に利用される姿となっているのである。

   想念は万物を変貌する驚くべき力をもっているのである。

   戦争も平和も、破壊する力も、建設する力も
   悉く想念の顕現ならざるものはないのである。

   現代の人間社会の生活状態は、その社会の棲む
   すべての人々の想念の集結であるということができるのである。

   時代により、人種によって、文化が異り、生活様式が異るのは、
   その時代又は人種一般の想念の相異によるのであって、
   形の世界は、単に其の想念の状態の影に過ぎないのである。

   あなたの生活が現在不幸であるならば、
   それはあなたの過去の想念の投影が
   現在の時間空間面に映っているからに過ぎない。

   あなたの未来を幸福にしようと思うならば、
   今直ぐあなたの想念に「幸福」を描くことにすべきである。

   そしてその「幸福」の想を持ち続けなければならない。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

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(5)【労農階級専制の軍国政府】

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【“道”は常住坐臥の生活に在り】

   正しい信仰は正しい日常生活となり、「謙りたる愛行」となるのである。
   茶がこぼれたら、きれいに拭き取るのが正しい日常生活であり、愛行である。

   そこに「日々是れ好日」がある。

   ”道”は邇(ちか)きに在るのである。

   イエス・キリストは、弟子の足を洗つたのである。

   常住坐臥、行届いたる愛行の中に“神”があらはれるのである。

   みずから高く傲慢に上がる者は墜され、
   謙りて自己を低くするものは却つてあげられる。

   http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=819809

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(7)舊約の靈媒的豫言者にあらはれたるヱホバ神

   舊約聖書には、多くの”靈”が「ヱホバ神」の名を用ひて
   諸々の豫言者に靈媒的現象を起させて豫言をしてゐるのである。

   その豫言の中には正しいものもあれば、荒唐無稽なものもある。

   「本當の神は靈媒にはかからぬ」のである。

   しかし時にはある階級の正しき高級靈が、
   宇宙不遍の「唯一神」の神意を受けて、”唯一神”の名のもとに
   神意を傳へるところの正しき預言を語ることがある。

   それは、勅使が、一天萬乗の天子の御諚を携へて來て
   天使の名に於てその御諚を朗讀するのにも似てゐるのである。

   だからそれらの預言には、實際、神意を傳へてゐる部分も多いのである。

    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月9日 頓首再拝>

【十日の法語・言葉(4月10日)】 - 伝統

2026/04/10 (Fri) 05:03:02


(1)《感謝と祝福の日》

   吾は今日 感謝を以て この日を始めるのである。
   この日は 神に祝福されたる日である。

   よきことの外(ほか)は決して自分にはやって来ないのである。
   悪(あ)しきことは存在しないのである。

   神は吾を祝福し給うのである。
   その如(ごと)く吾も亦(また)すべての人を祝福するのである。

   わが住む世界を祝福し 人類を祝福し、国家を祝福し、社会を祝福し、
   両親を祝福し、夫又は妻を祝福し、子供を祝福し、
   部下を祝福し、召使を祝福し、凡(あら)ゆるものを祝福するのである。

   吾すべてのものを祝福するが故(ゆえ)に
   神の吾に対する祝福は実現するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13793097.html(消滅)


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(2)《「天上天下唯我独尊」の意味と自覚 》~『光の泉』(昭和33年4月号) 

   人間というものは、“オギァー”と産まれた時に、生じて来たものであると、
   こう思っている限りには、“死すべきところのもの”なのであります。 
   生じたものは滅しなければならないというのが、自然の法則であります。

   だから吾々が“死なない道”を発見しようと思ったならば
   “生れない道”というものを発見しなければならないわけであります。

   その “生れない道” を釈尊が発見されたのが 「生すでに尽きたり」 であります。 
   その時に 『天上天下唯我独尊』 と言われた。

   『天上天下唯我独尊』 というのは、
   わしが一番偉くなって他の奴は皆馬鹿だという意味ではないのであります。

   それは、総ての時間空間の、そういう束縛の世界から解放されて了って
   何物にも縛られない完全自由のものになったのだから、 

   『天上天下何物も私を縛るものがない、実に素晴らしき尊い存在が私である』 
   のであるということをお悟りになって、その境地を 『天上天下唯我独尊』 という語で
   表現なさったわけであります。

   その語を自分だけの 『独尊』 という意味にとるといけません。

   キリストでも 『自分は神の子の一人子』 と言って居りますけれども、
   一人という名辞がついているから、キリストだけが “神の子” で、
   他の人は皆「罪人」 だといわれているように思う人もあるかも知れませんけれども、
   そうじゃないのであります。

   釈尊が 『独尊』 と言われたその一人というのも矢張り決して 
   “わたしひとりだけが尊い” というのでは決してないのであります。

   『人間は神の子であって、総ての人間が尊い』 という自覚のお持ちになった上での、
   その『一人』は、結局生きとし生ける者を蔽い包んで居るところの 
   『全体者』 としての自覚ですから、釈尊の 『独尊』 ということも、

   キリストの 『神の一人子』 ということも、自分だけが一人尊い
   ということじゃないのであって、自分が一切のものである。 

   自分が悟れば一切が悟るというような自他包容の 『独尊』 の自覚であります。

   だから釈尊が悟りを開かれた時に、
   『山川草木国土悉皆成仏』 とこう仰せられたのであります。 
   山も川も草も木も、国土も、悉皆、悉くみな “成れる仏” であるというのであります。

   『独尊』 といわれたのだから 『一人だけ尊い』 のかと思ったら、そうじゃないのであって、
   万物が皆 “成れる仏” であるという自覚があります。 
   これが本当の 『独尊』 の自覚であります。

    http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19577838.html (消滅)

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(4)『あなたは自己の運命の創造者である』

   あなたは今何を考えていますか。

   一日のうち明るい事を考える時間が多いですか、
   暗い事を考える時間が多いですか。

   人を憎みとがめる想いを起す時間が多いですか。
   感謝し、讃嘆する想いを起す時間が多いですか。

   そのあなたの想念があなたの性格を決定し、
   あなたの人生の在り方を決定しつつあるのです。

   運命は、決して
   他の人又は神に支配されているのではないのです。

   自分自身が刻一刻、自己の想念によって
   自己の“運命”と名づける自分自身の肖像を
   彫刻しつつあるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

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(5)純情な青年学生のために歎く

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7851269

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(6)【十日のことば~神心(みこころ)を行ずる者のみ神の國に入る】

   傳道に熱心な玉井洋子さんから愛行実踐のお手紙を頂いた。

   この事は後に書くが、
   哲學は理論を追つて眞理に到達しようとするのであるけれども、
   宗教的信仰は生活に愛を実踐して、
   自己の生活に“眞理”を實現するのである。

   “眞理”とは“道”の事である。

   キリストは「吾は真理なり道なり、生命(いのち)なり」といつてゐられる。

   実踐の伴はない信仰は、イエスの言はれたやうに
   「中うつろにして大きく鳴るラッパの如し」である。

   又イエスは「主よ、主よという者必ずしも神の國に入るに非ず、
   天に在す父の御心を行ずる者のみ神の國に入る」と
   喝破してゐられるのである。

   眞理の説法を幾ら上手にしても自分の生活に愛行を伴はないならば、
   まことに「中はうつろにして大きく鳴るラッパ」に過ぎない。

   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198097

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(7)「われは何々である」といふ通りにあらはれる

   モーセが、棘の燃ゆるが如き靈光の中にあらはれた神に對して

   「その神樣のお名前は何と傳へたらよろしうございますか」とたづねたのに對して、

   神は「我有り」(I AM)とも言はれたが
   「我有りて在る者なり(I AM that I am・・・・)」

   と先ず答へられてゐるのである。

   これは

   「われは心の法則として汝の内に宿るところのものなり」

   といふ意味なのである。


   (I AM that I am・・・・)を直譯するならば、

   「我は” I am sick”(私は病氣です)」と言へば
   病氣の姿を以てあらはれるものであり、

   ”I am son of God”(われは神の子”である)と言へば
   ”神の子”の完全な姿をもつてあらはれるところの
   唯心所現的實態であるといふ意味である譯である。

   だからわれわれが言葉を使ふ場合、
   「われは何々である」といふ其の”何々”を
   「立派なもの」に定置しておかなければならない。

   われわれは言葉を慎んで、
   苟くも惡を表現する言葉を慎まねばならないのである。


   https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和8年4月10日 頓首再拝>

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