伝統板・第二
「和 ⑤」 - 伝統
2026/07/21 (Tue) 11:20:03
争闘の世界観を捨てよ
*「光明法語」(7月21日)より
かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、
人間の自覚が「一」を失って自己分裂し「争闘」の世界観を
もっているために、争闘の精神が、低い階級の生命(黴菌)に反映して、
人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。
人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「「和」 (8455)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1588 (消滅)
(2)伝統板・第二「和」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6612800
(3)伝統板・第二「和 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7537246
(4)伝統板・第二「和 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7808075
(5)伝統板・第二「和 ④」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8255676
<感謝合掌 令和8年7月21日 頓首再拝>
調和の念と黴菌 - 伝統
2026/08/21 (Fri) 12:11:48
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より
同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。
「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいる
ことがある」と
ルネ・アランデイ博士は言っている。
かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。
黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。
長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。
大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
****軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、
出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。
山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、戦場にいてさえも
「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。
伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。
人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。
また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。
<感謝合掌 令和8年8月21日 頓首再拝>
念仏を申す教えで、攻撃し合うなどは浅猿(あさま)しいこと - 伝統
2026/08/22 (Sat) 11:51:49
*「光明道中記」(8月22日 争い悉く解くる日)より
【宗教とは教祖が計画的に拵えたものではない。(『生命の實相』第十四巻)】
(歎異抄第六条)
専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、
もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、
わがはからひにて、ひとに念仏をもうさせさふらばこそ、弟子にてもさふらはめ、
ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、
わが弟子とまうすこと、きはめて荒涼のことなり。
専修念仏すなわち専ら念仏を修めて救われるようと云う教の宗派にいながら、
あれは親鸞の教派、あれは××の教派が異(ちが)うから救われないなど
と言う者があるが以ての外である。
親鸞の開いた教派などと云うものは一つもないし、
親鸞の弟子などと云うものも一人もない。
念仏を申すようになるも、念仏宗を開くのも
自力でそう云うことが出来るのではなく、
仏の本願力(他力)が廻向(まわりまわ)って
自分の中に催(もよお)して来たのであるから、
自分が開山ではなく、
また自分の教に共鳴して念仏を申すようになった人も自分の弟子ではない。
それに何ぞや、自分自身を開山のように思い、
一緒に念仏する人を自分の弟子のように思い、
他の教には仏の慈悲が催しているのだとは考えないで攻撃し合うなどは
浅猿(あさま)しいことだと親鸞聖人は仰せられたのである。
<感謝合掌 令和8年8月22日 頓首再拝>
親鸞の大調和な心 - 伝統
2026/09/03 (Thu) 11:29:55
*「光明道中記」(9月3日《争いの自然に消ゆる日》)より
【雑念は心を澄み切らす働き、雲は空気を澄み切らす働き。
(生命の實相第八巻)】
(歎異抄十二条)
学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり、難行となづく。
あやまて学問して名聞利養(みょうもんりよう)のおもひに住するひと、
順次の往生いかがあらんずらんといふ証文(しょうもん)もさふらふべきや。
当時、専修念仏のひとと聖道門のひとと、諍論(じょうろん)をくはだてて、
わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵も出できたり、
謗法(ぼうほう)も起こる。
是併(これしか)しながら、
自(みずか)らわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。
親鸞聖人が易行門を立てられたのは、聖道門よりもわが宗旨まさっているとして
それを誇るためではなかったのである。
自分が下根の凡夫である、一文不通のものであって、
一切の蔵経を調べあげ研究しあげたすえに救われるのであったならば、
到底そんな智慧学問は無いところの吾らであるから、
救われようがないからこその易行門の信仰なのである。
聖道門を相手にまわして易行門の優越性(すぐれているところ)を説いて、
ひとの宗教は劣っているなどと説くから法敵も出で来たり、
法を謗(そし)る人も出来て来るのである。
だから他宗を攻撃するのは、天に対(むか)って唾するようなもので、
自宗に対して傷つけることになるのである。――
こう言って親鸞は当時日蓮の「念仏無間(むげん)・禅天魔」の批評をも
黙殺してかかられた。
誠に大調和のお心であった。
<感謝合掌 令和8年9月3日 頓首再拝>
諍(あらそ)うこころを捨てせしめよ - 伝統
2026/09/05 (Sat) 08:36:02
*「光明道中記」(9月5日《神の慈手に抱かれる日》)
【汝の悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ(生命の實相第十一巻)】
(歎異抄十二条)
故聖人(親鸞)のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、
そしる衆生もあるべしと、仏説き置かせたまひたることなれば、
われはすでに信じたてまつる。
またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。
しかれば往生はいよいよ一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。
あやまつてそしるひとのさふらはざらんにこそ、
いかに信ずるひとはあれども、
そしるひとのなきやらんともおぼえさふひぬべけれ。
かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねを知ろしめして、
ひとの疑ひをあらせじと、説きをかせたまふことをまうすなり
とこそさふらひしか。いまの世には、学問してひとのそしりをやめ、
ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられさふらふにや。
更に茲には親鸞聖人の法を謗(そし)る法敵さえも仏の予言の中に、
従って仏の摂理(おはからい)の中にある事を示して、
諍(あらそ)うこころを捨てせしめようと云う用意が見られるのである。
学問して他に論(い)い勝とう議(い)い勝とうと思うこころは
余りにも脳髄智識によって人が救われるならば諸々の智者学者は救われた
であろうが、救いは貧しきもの愚かなものに示されるのである。
<感謝合掌 令和8年9月5日 頓首再拝>
生かし合いがあるばかり - 伝統
2026/10/03 (Sat) 11:45:37
*「光明道中記」(10月3日《却下(あしもと)を見る日》)より抜粋
【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。
(『生命の實相』第十一巻)】
吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。
人生観が万事である。
奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。
(中略)
すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、
自然そのままの、換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には
殺し合いはないのである。
そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。
魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。
それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。
<感謝合掌 令和8年10月3日 頓首再拝>
自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統
2026/10/30 (Fri) 12:01:41
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より
人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。
自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。
自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。
<感謝合掌 令和8年10月30日 頓首再拝>