伝統板・第二
英霊の言乃葉 49 - 夕刻版
2026/08/01 (Sat) 17:56:43
****社頭掲示~令和8年8月
感無量
陸軍兵長 小川 新次 命
昭和十九年十二月二十二日
フィリピン・レイテ島ブラウェンにて戦死
静岡県庵原郡袖師出身 三十三歳
九月五日午前二時十分營門出発
午前二時三十分発車
元氣にて大陸の北支(大同ヨリ)包頭に行く。
留守中何分(なにぶん)子供を大切に氣をつけて呉れ。
母上父上様に呉れぐれも宜しくお傳へ下さい。
お前も身体を氣を付けて、俺の帰りを待つて心棒して呉れ
此れから先、涼しさ加はる折、十分と呉れぐれも頼む。
書き度(たき)事澤山あれど感無量。
兄さん、姉さん、妹達によろしく傳へ下さい。
皆々様の御健康を御祈り申し上げます。
静岡駅より博多 ー 朝鮮 ー 満州 ー 張家口 ー 大同包頭
大同と包頭に二班に分れる予定
千代子江
新次より
<感謝合掌 令和8年8月1日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和7年8月 - 伝統
2026/08/02 (Sun) 12:52:14
皆々様元気で
海軍上等主計兵 星野 清一 命
昭和十九年七月八日
マリアナ諸島サイパン島にて戦死
埼玉県大宮市大谷別所出身 三十三歳
拝啓 過日五月五日に御手紙有難く拝見致しました。
皆々様には別に御変りなく元気にて御暮しの事御喜び申し上げます。
(中略)
手紙拝見すると大分子供等も大きくなった様子。
皆お前の日頃の教育の御蔭です。
戦地で働いて居る私は
子供の様子の便りが一番喜(うれし)く思ひます。
自然的に元気になって、私に力を付けて呉れて厚く御礼申し上げます。
(中略)
南の空でお前達の御健康を祈って居る。
何如(いか)なる事が有りても親子三人で元気で暮らしてくれ。
私も元気で大東亜戦争勝ち抜くまで働くぞ。
御安心ください。
お前は俺が家を出る時に云った言葉を忘れてはいけない。
人間は上を見ればかぎりがない下を見て咲く百合の花。
その気持ちで働く事が一番大切です。
(中略)
又後日御頼り差上げます。 皆々様元気で。
星野清一
星野ヨシノ様
弘子 様
健一 様
<感謝合掌 令和8年8月2日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和6年8月 - 伝統
2026/08/03 (Mon) 15:10:26
立派にやって参ります
陸軍上等飛行兵曹 西澤 隆 命
昭和二十年四月十二日
沖縄本島飛行場にて戦死
長野県南佐久郡栄村出身 二十一歳
厳寒の候と相成りました。
久しく御無音に打過ぎ誠に申訳ありません。
其の後、皆様には御変り有りませんか。
小生相変ず元気旺盛にて軍務に精励致して居ります故、
他事乍御休心下さい。
保美の件、知っては居たものの、やはり公報に接して見れば悲しく、
そして可哀相に思ひます。
此の上は何がなんでもかたきをうたねばならぬ。必ずやります。
保美よ、安らけく見てゐてくれ、そして君の国から見て居て、
もし戦に奇有らば助けをたのむ。
さて、
小生も此の度命に依りまして○○方面へ出動致す事となりました。
父母の言付けを守って必ず一同様の御期待にそふやう立派に
やって参ります。
現在迄の父母の御努力に感謝致します。
戦地などへ行くと言へば皆様はすぐ死を思はれるでせう。
それは運命のそれで死ぬ時は死にます。
然し、運命の有る者は何処にどうして居ても必ず生きて居ます。
御安心の程を。
然し一時は便りはたえますが、其の時に武運を祈って下さるやう
お願ひいたします。
(中略)
皆々様に呉々もよろしくお伝へ下さい。
最后に皆々様の御健勝御幸福の程を御祈りいたしまして
筆を置きます。
左様奈良
隆より
父上
一同 様
<感謝合掌 令和8年8月3日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和5年8月 - 伝統
2026/08/04 (Tue) 15:24:40
決戦の春
海軍一等兵曹 丸尾 徳次 命
昭和二十年五月五日
フィリピン郡島にて戦死
兵庫県飾磨鹿谷村出身 二十七歳
燦(さん)と輝く銀の星
緑の海原(うなばら) 紺碧(こんぺき)の空
暁(あかつき)昇る 洋上に
静かに浮かぶ くろがねの
舷窓(げんそう)近く 春は来ぬ
明(あ)くれば昭和十九年
今 決戦の秋(とき)は来ぬ
勲(いさお)し高き軍艦の
甲板(かんぱん)上に今立ちて
輝く光 身に受けて
戦ひ抜かん 血は燃(も)ゆる
*「くろがね(黒鉄)」は軍艦の意
https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html
<感謝合掌 令和8年8月4日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和4年8月 - 伝統
2026/08/05 (Wed) 13:14:39
淡々として征途に就かんのみ
陸軍大尉 酒井 源兵衛 命
昭和二十年八月十日
フィリピン・ルソン島にて戦死
兵庫県多紀郡丹南町出身 三十一歳
悠久三千年の歴史に輝く皇國の興廃を決するの秋(とき)、
正に来(きた)る。恰(あたか)もよし。
此(こ)の秋今日、最後の決戦場に臨(のぞ)まんとす。
男子の本懐(ほんかい)之(これ)に過(す)ぐるものなし。
生死固(もと)より天にあり。
唯(ただ)、至誠以て任務に邁進せんのみ。
顧(かえりみ)れば、生を受けしより三十年。
今日あるは諸々(もろもろ)の恩恵によるは勿論なるも、
父上母上の陽(ひ)になり陰(かげ)に亙(わた)る慈愛に負(お)う所
最も大なり。(中略)
今回辱(かたじめな)くも
恩賜品(おんしひん)を拝受(はいじゅ)するの光栄に浴(よく)せり。
今日までの不孝、之(これ)に依(よ)り諒(りょう)とし給はんことを、
今は何ら思ひ残すことなし。
淡々として征途(せいと)に就(つ)かんのみ。
仮令(たとえ)、戦死の報(しらせ)到(いた)るとも、
悲嘆に捕(とら)はれ給ふこと勿(なか)れ。
人間には肉体を超越せる何物かが存在す。
生死に拘(かかわ)らず、我等は常に一体なり。
老齢、故郷に帰り給ふとも、
孝養を盡(つく)すべき男子二児(にじ)共に戦野にあり。
日夜の御辛苦(ごしんく)推察す。
唯、天なり命なり。
幸に自重・自愛・天寿を全うせられんことを遥(はる)かに祈り続けむ。
昭和十九年十月
源兵衛
父上様
母上様
https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html
<感謝合掌 令和8年8月5日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和3年8月 - 伝統
2026/08/06 (Thu) 14:29:31
遺言書
陸軍兵長 金須 正一 命
昭和20年5月15日
沖縄本島運玉にて戦死
北海道河東郡鹿追村出身 23歳
金須多利治様
外御一同様
天皇陛下の御(おん)ために戦死しました。
武人の面目にて男子の本懐なり。
是(これ)も偏(ひとえ)に二十有余年間御養育下されし
御両親様始め兄弟一同、又中隊長殿始め各先輩の入隊以来の
御指導及び戦友の友情にて今日の栄を得たり。
父母上様に先立つも君(きん)に忠(ちゅう)なれば、
又親にも孝(こう)なり。
正一の戦死を御喜び下さい。
老いたる父母上様を残して先立つは忍びざるも仕方なし。
何分兄弟相助けて亡き正一の分まで孝養を盡して下さい。
実に親の恩は深重(じんじゅう)です。
時折態度の悪かった事も御免(ごめん)下さい。
(中略)
常に皆さんの身を守ります。
今度逢(あ)ふ日は靖國の御社(みやしろ)で。
兄も待ってをるだらう。兄とも逢へると思ふと嬉しいです。
笑ってお先に参ります。
立派に働いて戦死した事をお喜び下さい。終はりに
天皇陛下萬歳(ばんざい)と皆様の御健康をお祈りして、
お別れ致します。
御機嫌やう。
隣近所の方々にもよろしく。
国蔵よ元気で立派な軍人になって呉(く)れ。
金須 正一
https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html
<感謝合掌 令和8年8月6日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和2年8月 - 伝統
2026/08/07 (Fri) 13:23:12
お父さんより
陸軍少佐 森 美喜 命
昭和十七年十二月二十一日
ソロモン群島カダルカナル島戦死
鳥取県気高郡美穂村出身
三十九歳
お父さんより
美知枝に
美つちゃんが出生することをお父さんとお母さんは
真面目に祈っていたのです。
そしてお母さんも、お父さんもとても元気でした。
美つちゃんがお母さんの胎内にある時、お母さんの栄養の摂取は勿論
立派な美つちゃんが生まれ出るやめに、色々な栄養や健康法に努めたのです。
お母さんもお父さんもとてもうれしく気持ちよく日々を送りました。
そして、美つちゃんが生まれ出る時が来ました。
(中略)
美つちゃんは、まるまる肥えて元気らしく、ほんとに赤ちゃんといったふうで、
綺麗でした。そしてお母さんのお乳に元気よく食いついて飲んでくれました。
(中略)
美つちゃんは、きっと立派な女性、大和民族として、その美性をそなへ
智格を保ち枝性を垂れて、人生の本分に邁進せよ。
お父さんはしばらく戦場にあつて、戦争目的を達して帰る。
留守中にきっと利巧な美つちゃんなっているであらう。
お母さんの教へを守り、早く成長してお母さんを助けなさい。
そして兄二人と仲良く三人が手を握り合つて、
お父さんのために、お母さんのために三人の名を挙げなさい。
ではこれで失礼する。
昭和十七年十一月十五日
父 森 美喜
森 美知枝 殿
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)
<感謝合掌 令和8年8月7日 頓首再拝>
****社頭掲示~令和元年8月 - 伝統
2026/08/08 (Sat) 14:47:27
遺詠
陸軍伍長 京 直衛 命
昭和ニ十年ハ月十七日
満州吉林省 陶家屯駅北方にて戦死
秋田県能代市大町出身
二十九歳
大君に召(め)されて征(ゆ)くや益荒男(ますらほ)が
草むす屍(かばね)何か惜しまん
子の親となりて強し吾(わ)が母の
尊き愛の心にぞ触(ふ)る
身はたとひ広野(こうや)の果(は)てに散(ち)ろうとも
捧げた命(いのち)何か惜しまん
京 直衛
( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )
<感謝合掌 令和8年8月8日 頓首再拝>
蛍(ほたる)になって帰ってきた特攻隊員 - 伝統
2026/08/09 (Sun) 13:30:55
*メルマガ「人間力」(2026.8.9)より
アメリカとの戦争が激しさを増し、
祖国を守るためにと、鹿児島の地から、
多くの若者たちが激戦地である沖縄へと
飛び立っていくようになりました。
いよいよ、明日が総攻撃という前夜のことです。
知覧で富屋食堂を営む鳥濵トメさんのところには、
たくさんの若者たちが詰めかけてきたといいます。
本来であれば、作戦に関わることを
一般人に告げることは堅く禁じられていました。
しかし、いつも親身になって世話をしてくれたトメさんに、
彼らは最後のお別れをしようと、そっと訪れたのでした。
その中の一人の青年は、トメさんにこう伝えたといいます。
「僕は必ず帰ってくる。
ホタルになって帰ってくるよ」
総攻撃の当日、荒れ狂う天候に見舞われ、
特攻隊員の中には、途中で引き返さざるを得なかったそうです。
しかし、トメさんと約束を交わした彼は、
一路、沖縄に向けて飛び続けたのでした。
そして、その晩、トメさんの庭に
飛び込んできた一匹のホタル。
トメさんの胸の内を推し測ると、
切なさがこみあげてきます。
・・・
「特攻の母」とも呼ばれ、
若者たちの心に寄り添い続けた鳥濵トメさん。
その体験や若者たちの声を通じて、
私たちに語り掛けてくるものは
切なくも、ずっしりとした重みを持っています。
毎年夏に訪れる終戦の日。
この特別な日に、いまの日本の礎を築こうと
一所懸命に生きた若者たちの志に、
想いをはせる機会をしていただければ幸いです。
・・・
<関連>
散りゆく若者たちを見送り続けた「特攻の母」と、季節外れの蛍の物語
https://www.mag2.com/p/news/179588
・・・
【鳥濱トメと特攻隊 ー『帰って来た蛍』で描かれる隊員-】
*Web:知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会(2020年6月6日)より
宮川 三郎少尉 享年二十
昭和元年六月五日生 新潟県小千谷市出身
昭和二十年六月六日 陸軍特別攻撃隊第一〇四振武隊
戦死後 二階級特進 少尉任官
当会で共催させていただいている、舞台『帰って来た蛍』や、
数々の映画や文庫本などで伝えられてきた宮川三郎少尉のお話をご紹介します。
(赤羽礼子 石井宏 著書「ホタル帰る」より抜粋、加筆修正)
大東亜戦争末期、敗戦の色濃くなった日本軍が取った
「と号作戦」いわゆる「特攻」。
10代~20代の若い隊員たちが航空機に250キロ爆弾を抱え、
連合国の艦船に突入する百死零生の攻撃方法です。
宮川少尉も特攻隊員でした。
宮川三郎少尉は昭和二十年五月半ば、
特攻基地のある「知覧」の富屋食堂に姿を現しました。
生まれは雪国「新潟」の小千谷、色白でハンサムな男性でした。
知覧に近い「万世飛行場」から、一度は特攻出撃したものの、
機体の調子が悪く帰還した経緯がありました。
そのせいで、生き残りの烙印を押され不忠の汚名を着せられました。
そんな宮川少尉といつも連れ立っていたのは滝本伍長でした。
彼もまた、同じく万世から出撃し帰還した一人でした・・・。
宮川少尉は、富屋食堂で奇跡とも言える再会を果たします。
その相手は「第五十振武隊」の松崎義勝伍長です。
松崎伍長は、宮川の故郷、新潟県小千谷高等小学校在籍当時の良きライバルでした。
2年間ではありますが、机を並べた仲でした。
卒業後、それぞれの道に進んでいたので、まさに「奇跡」と呼べる再会でしたが、
そのわずか二日後、松崎伍長は出撃し還らぬ人となりました。
そしていよいよ、宮川少尉にも出撃の命が下ります。
運命の出撃は六月六日。その前日は宮川少尉にとって
満二十歳の誕生日でもあったのです。
鳥濱トメは出撃前夜、富屋食堂で心づくしの手料理を振る舞い、
宮川少尉の誕生祝いと出撃のはなむけとしました。
トメの愛娘である礼子や、知覧高等女学校の生徒たちは「なでしこ隊」として、
宮川少尉ら特攻隊員の身の周りの世話をしており、
出撃前日には血染めの日の丸の鉢巻きを作って手渡していました。
宮川少尉はお礼に、当時としては高価だった、
兄からもらった万年筆を「俺だと思ってくれ」と礼子に渡しました。
出撃前夜は空襲警報が鳴り響き、宮川少尉と滝本伍長、
そしてトメと愛娘のふたりは防空壕へ2~3回入りました。
防空壕を出た5人が外を飛び交う蛍に見入ったちょうどその時、
宮川少尉は、ある約束をします。
「おばちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、
死んだらまた、おばちゃんのところへ帰ってきたい。なぁ、滝本。」
滝本もうなずきました。
「そうだ、蛍だ、俺、この蛍になって帰ってくるよ。」
トメは「ああ、どうぞ帰っていらっしゃい。」
宮川少尉は腕時計を見ながら
「九時だ。じゃ、明日の晩の今頃に帰って来る事にするよ。
俺たちが入れるように、店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」
トメは「わかった。そうしておくよ。」と答えます。
宮川少尉はさらに続けて、こう言ったのです。
「俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ」
トメは涙をこらえながら伝えました。
「わかった、歌うからね・・・。」
出撃の朝は雨が降りしきっていました。
その日の夕刻、トメが店を片付けていると
出撃したはずの滝本伍長が入ってきました。
宮川少尉と滝本伍長の二人は、出撃したものの雨で視界が悪かったため、
沖縄までたどり着くことができるかどうか怪しいほどでした。
滝本伍長は二度、三度となく宮川少尉に引き返すよう促しますが、
宮川少尉は「おまえは帰れ、俺はいく」という身振りで、
一向に戻ろうとせず、ついに、滝本伍長はひとりで知覧に引き返してきました。
夜になってラジオが9時を告げ、ニュースが始まってすぐのことでした。
わずかに開いた表戸の隙間から一匹の大きな蛍が入ってきたのです。
二人の娘たちは、ほぼ同時にその光景に気がつき叫び声をあげました。
「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」
トメは息を呑みました。
そこには、紛れもなく帰ってきた「宮川少尉」がいたのです。
気がつくと、店にいた兵隊たち、滝本伍長、そしてトメと娘たちは
「同期の桜」を歌い始めていました。
https://www.youtube.com/watch?v=sdUrucGfoH4
貴様とおれとは
同期の桜
おなじ航空隊の
庭に咲く
咲いた花なら
散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため
貴様とおれとは
同期の桜
離れ離れに
散らうとも
花の都の
****
春の小枝で
咲いて逢ふよ
宮川少尉はトメたちとの「約束」を果たしました。
そして、現代を生きる私たちに日本の未来を託し、
今も蛍となって見守ってくれていると思います。
<感謝合掌 令和8年8月9日 頓首再拝>
****社頭掲示~平成30年8月 - 伝統
2026/08/10 (Mon) 13:06:42
誠教(しげのり)君へ
陸軍大佐 横田庄三郎 命
昭和17年1月3日
中華民国湖南省長沙付近にて戦死
鳥取県気高郡大郷村出身 46歳
ダイ一ガッキ セイセキハ タイヘンヨクデキ
オトウサンモ ヨロコンデヰマス 四日モケッセキシタノハ
ビヤウキデヤスミマシタカ スキナナツヤスミモスンデ
マタ ガクカウガ ハジマッタデセウ ダンダン
スズシクナリマスカラ ベンキヤウモシ ウンドウモセネバ
ナリマセン オトウサンノキズモ スッカリナホッテ
ゲンキデハタライテヰマス サヤウナラ
八月十七日
オトウサンヨリ
誠教君
(https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/fbbe1eb4bc0a604098def3cdcc00fb52 )
<感謝合掌 令和8年8月10日 頓首再拝>
****社頭掲示~平成29年8月 - 伝統
2026/08/12 (Wed) 03:21:59
永へに皇国を護らむ
陸軍中尉 青木 輝雄 命
昭和十九年八月二十一日
トラック諸島夏島にて戦死
長野県下高井郡中野町出身
二十四歳
大君の命(みこと)かしこみ大船の
行きのまにまに仇撃ち征かむ
大命にもとづき勇躍征途に就く
男子の本懐、是に過ぐるものなし
生死、勿論戦場の常
生くべきは生き、死すべきは死す
何ぞ恐るるに足らむ
若し万一の事あるも、我靖國の杜にありて
永へに皇国を護らむ
墓標は、つとめて小たるべし
書籍なども一般に不必要のもの多かるべし
よく暹(のり)殿と相談の上、これ等は国民学校に寄贈
以て我が志を国民教育の上に生かされたし
皇国の弥栄を祈りて擱筆(かくひつ)す
紀元二千六百四年四月大吉日
輝雄
父上様
・・・
『8月拝殿掲示』
昭和天皇御製
全国戦没者記念日 (昭和63年)
やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるかきざしみゆれど
(http://sukurari1945.blog48.fc2blog.us/blog-date-20170815.html )
<感謝合掌 令和8年8月11日 頓首再拝>
****社頭掲示~平成28年8月 - 伝統
2026/08/12 (Wed) 19:53:47
遺言状
陸軍大尉 岡 研磨 命
昭和十九年九月二十一日
西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳
人生草露の如し。
今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに
過ぐる事なし。
母上に対し孝養足らず。
遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。
深くこれを謝す。
人生の行路平坦ならず。
一同力を合はせ御国の為
勇往邁進(ゆうおうまいしん)せよ。
吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん。
・・・
<参考Web:美しく 樹つる 石が根(2016-08-01)
→ http://chan75.hatenablog.com/entry/2016/08/01/233722 >
・・・
『8月拝殿掲示』
(上)皇后陛下御歌
終戦記念日に (平成8年)
海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
あまたのみ霊(たま)国護るらむ
(http://sukurari1945.blog48.fc2blog.us/blog-entry-3134.html )
<感謝合掌 令和8年8月12日 頓首再拝>
****社頭掲示~平成27年8月 - 伝統
2026/08/13 (Thu) 16:06:02
天皇陛下の御為に
陸軍曹長 木 崎 徹 治 命
昭和二十年一月三日
フィリピンミンドロ島にて戦死
埼玉県北葛飾郡豊野村出身
二十三歳
天皇陛下の御為に、米英撃滅の決戦の大空に悠久の大義に就かんとす。
男子の本懐此れに優(すぐる)無し。
長年の御教訓に遵(したが)ひ死所を得たる徹治は幸福者です。
貧苦の中にも良き御教育の道を戴き有難うございました。
徹治戦死の報あるも決して悲しんで下さるな。
一日も早く病全快せられ、御母様共々末長く達者で御暮らしの程御祈り致します。
彰介は立派な人間にして下さい。
小生の貯金其の他は、弟妹等の教育費に御使用願ひます。
兄上木崎家の更隆を切に御願ひ致します。
弟妹達仲良く身体を大切に勉強して立派な人間になって
孝養を盡(つく)すを怠るな。
嗚呼(ああ)、大東亜永遠の平和確立の暁を見よ快なる哉(や)。
徹治
父母様
兄弟妹様
・・・
【平成27年8月拝殿掲示】
昭和天皇御製
千鳥ヶ淵戦没者墓苑(昭和34年)
国のため命ささげし人々の
ことを思えば胸せまりくる
(http://sukurari1945.blog48.fc2blog.us/blog-date-20150815.html)
<感謝合掌 令和8年8月13日 頓首再拝>
****社頭掲示~平成26年8月 - 伝統
2026/08/14 (Fri) 19:06:46
遺書
海軍兵曹長 庄司猛夫命
昭和十九年十一月二十一日
フィリピン東方海面にて戦死
福島県岩城郡内郷町出身
二十七歳
我今より我が大日本帝国の決戦場に向ふにあたり一言遺言す。
我もとより戦場に向ふに心残りなし。
今大君の御為、大和民族の盾となれるを喜ぶ。
家人よ嘆く勿れ、むしろ祝すべし。
我が家にも名誉の戦死の記されることを地下より喜ぶ。
二十六年の間、海よりも深き父母の恩に報い得ざるは、残念なり。
残る弟妹達、兄たる小生の分も孝行されたし。
節子よ、兄の墓は敵の重艦で大きく立派なものだ。
此の海を今にお前たちが船に乗って通ることもあるでしょう。
兄は喜んで見上げるよ。
母さんに孝行、父の言を守り弟妹共の指導をたのむ。
(後略)
昭和十八年一月十日
・・・
『8月拝殿掲示』
昭和天皇御製
歌会始御題 光 (昭和35年)
さしのぼる朝日の光へだてなく
世を照らさむぞわがねがひなる
(http://sukurari1945.blog48.fc2blog.us/blog-entry-2122.html )
<感謝合掌 令和8年8月14日 頓首再拝>
****社頭掲示~平成25年8月 - 伝統
2026/08/15 (Sat) 13:32:17
自分ノナマヘカケマスカ
海軍上等水兵 吉田 勝 命
昭和十九年八月十日
マリアナ諸島方面にて戦死
東京都北区田端町出身
三十六歳
明子チャン、大変ニオリコウサンニ、ナッタサウデスネ。
オ父サンハ、ヨロコンデヰマス。
ヨク通子トモ遊ンデヤルトノ事。
オヂイサン、オバアサン、オ母サンノ云フコトヲヨクキイテ、
マスく良イ子ニナッテ下サイ。
オ父サンモ、ココカラ元気ニ、ヘイタイサンニナッテ、見テヰマス。
塗絵タイヘンヨクデキマシタ。
モットモットカイテ、ナニカヒトリデ、カイテ下サイ。
自分ノナマへカケマスカ。
マダムリデスカ。
マタ、オモシロイハナシヲ、タクサンキカセテアゲマス。
通子、順子ニモヨロシク。
サヨナラ
父ヨリ
明子チャン
<感謝合掌 令和8年8月15日 頓首再拝>