伝統板・第二
礼拝の教え ⑤ - 伝統
2026/09/04 (Fri) 09:58:26
その実相を拝ませていただくとき救われる
*「光明道中記」(9月4日 有り難く其の儘受ける日)より
【如来は一体である。一仏即多仏である。(生命の實相第六巻)】
(歎異抄十二条)
たとひ諸門こぞりて、念仏は甲斐なきひとのためなり、
その宗あさし卑しといふとも、さらにあらそはずして、
われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの信ずればたすかる由、
うけたまはりて信じさふらへば、更に上根のひとのためには卑しくとも、
われらがためには最上の法にてまします。
たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、
器量およばざればつとめ難し。
われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、
御妨げあるべからずとて、憎ひ気(げ)せずば、誰のひとかありて、
仇をなすべきや。
かつは、諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、
智者遠離すべきよしの証文さふらにこそ。
この一節には当時親鸞聖人の念仏門の教に対して
色々の非難や攻撃があったことが窺われるのである。
親鸞聖人はそれに対して
「われらが如く下根の凡夫は」と
下手に出て諍(あらそ)うこと勿れと諭されたのである。
「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる」とて
智者はかかる諍(あらそ)いより遠ざかるべきを示されたのである。
諍(あらそ)いに勝ちたりとて救われるのではない。
此のまま此の世が阿弥陀仏のお浄土であると、
その実相を拝ませていただくとき救われるのである。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「礼拝の教え ①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6778863
(2)伝統板・第二「礼拝の教え ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7633219
(4)伝統板・第二「礼拝の教え ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7951804
(5)伝統板・第二「礼拝の教え ④」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8319923
<感謝合掌 令和8年9月4日 頓首再拝>
物は拝んで使い、活かしきる - 伝統
2026/09/18 (Fri) 11:35:18
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より
物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、
「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。
それは
「物質と見えているものも実は物質ではない、
神の生命(せいめい)、仏の慈悲があらわれているのであるから、
大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。
いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。
それは冥加(みょうが)にあまることであり
神仏の加護の波長に合いかねるのである。
糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、
いったん用立ち終わったと見えるものも、
それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。
<感謝合掌 令和8年9月18日 頓首再拝>
すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統
2026/10/21 (Wed) 12:33:47
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月21日)より
真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。
それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、
蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、鉛筆も、茶碗も、大根も、
・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。
それどころか、
人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。
もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。
だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。
人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。
<感謝合掌 令和8年10月21日 頓首再拝>